はじめに
「救いの広さと深さ」と題した二つの記事では、正教会の主教カリストス・ウェアの著作を手がかりに、天国と地獄、そして救いの範囲について考えました。ウェアについては、『ユダヤ人も異邦人もなく パウロ研究の新潮流』(山口希生、新教出版社、2023年)の中でも言及されているのですが、山口氏はそこで、ルターの「幸いな交換」と、東方正教会の「交換」とを比べています。
この「交換」という言葉は、これまでこのサイトで取り上げてきたいくつかのテーマを、一本の線で結ぶ手がかりになると思います。義認、聖化、栄化、テオーシス、そして天国と地獄。この記事では、山口氏の議論を紹介し、これまでの記事で扱った内容にも触れながら、キリストに似ていくという救いの形を考えます。
ルターの「幸いな交換」
山口氏は、まずルターの理解を次のようにまとめています。
このように、ルターの言う『交換』においては、信仰者の持つすべての不義がキリストのものと見なされ、キリストは『罪人』として神に裁かれる一方、キリストの持つすべての義は信仰者のものと見なされ、信仰者は『義人』として天国に迎え入れられます。これがルターの言うところの『幸いな交換』です。しかし、この交換はあくまで仮想的・虚構的なものです。キリストが実際に罪を犯して『罪人』になってしまったのではなく、あくまで『罪人』とみなされるだけだからです。(207〜208頁、太字は原文の傍点)
これは、「救いとは何か」シリーズの義認の記事で触れた、「義の転嫁(キリストの義が信仰者のものと認められること)」という考え方です。裁判官である神が、信仰者を「義である」と宣告する。そのため、法廷のイメージで説明されることが多い理解です。
山口氏の言う「仮想的・虚構的」とは、キリストが実際に罪人になったのではなく、信仰者も実際に義人になったのではない、ということです。両者は、互いにそう「みなされる」のです。
なお、山口氏は注で、この「交換の虚構性」について、河野克也「修復的贖罪論の可能性を探る」(東京ミッション研究所編『平和を作り出す神の宣教』ヨベル、2020年、114〜116頁)を参照として挙げています。
ただし、この「虚構」という評価には異論もあります。須藤英幸氏は本書(『ユダヤ人も異邦人もなく』)の書評で、ルターの「幸いな交換」は、中世の修道院神学者ベルナルドゥスが説いた「花嫁神秘主義」の伝統を受け継いだものだと指摘しています。キリストとの合一を、花婿と花嫁の関係にたとえる伝統です。花婿が花嫁の持ち物を分かち合うように、信仰者は信仰を通してキリストの義にあずかる、という理解です。須藤氏は、ルターの『ガラテヤ大講解』から次の言葉を引いています(日本語は須藤氏の訳)。
[キリスト]は、[ご自分の義]を私たちと幸いにも交換することによって、罪深い私たちを引き受けられ、潔白で勝ちを収めるご自分の人格的特性を私たちに与えられたのだ。
さらに須藤氏によれば、ルターにとって義認は救いのプロセスの始まりであり、聖霊の助けによって、キリスト者をキリストの似姿へと変えていく実質的な効力を持つものでした。そうであれば、ルターの「交換」も、単に「みなされる」だけのものではないことになります。
東方教会の「交換」
これに対して、東方正教会の語る「交換」は、山口氏によれば「仮想的・虚構的なものではなく、現実的(リアル)なもの」です。山口氏は、ウェアの How Are We Saved? から次の一節を引いています(日本語は山口氏の訳)。
似た者は、似た者によって癒され、救われる。(Like is healed and saved by like)われらが主は私たちのようになり、人間性のすべてを分かち合うことで私たちを救われる。それによって、私たちが主の中にあるものを分かち合うことが可能になる。したがって、賜物の互恵的な交換によって、主は私たちの人間性を身に帯び、私たちを彼の神性に与らせる。そして、罪によって破壊された創造主と被造物との間の交流を再び打ち立てる。(208頁、原著は42〜43頁)
山口氏は、これを「本物の交換」だと説明します。理由は二つです。一つは、神であるキリストが人間になったと「みなされた」のではなく、本当に人間になられたこと。もう一つは、この交換がキリストから人間への一方向ではなく、人間からキリストへと向かう双方向のものだということです。
ウェアは、この原則が最もはっきり表されている箇所として、第二コリント8:9を挙げています。
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。
コリント人への手紙第二8:9(口語訳)
さらにウェアは、主が私たちの堕落した状態へと降って来られたことが、私たちの上昇を可能にしたとも述べ、ピリピ2:5〜11を示しています。キリストが自らを空しくして人となられたこと(ケノーシス)が、人が神にあずかる道を開いたという理解です。ウェアはこれを、参与的救済論(participation soteriology)と呼んでいます。
似た者は似た者によって
ウェアの一節の要は、「似た者は、似た者によって癒され、救われる」という一文であるように思います。キリストが私たちに似た者となられたからこそこそ、私たちもキリストに似た者となっていくことができる、ということです。
この「似ていく」という考え方は、これまでの記事で何度も登場してきました。テオーシスの記事で紹介したように、マイケル・ゴーマンは、東方教会の言葉を借りて、パウロの救いを「テオーシス」(神化)と呼びました。それは、自らを空しくする、十字架の形をとった神の性質に、変えられつつあずかることです。ゴーマンの議論の中心にあるのも、ウェアと同じピリピ2章です。
「救いとは何か」シリーズの聖化と栄化の記事でも、この「似ていく」ことを扱いました。パウロはこう語ります。
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
コリント人への手紙第二3:18(口語訳)
聖化とは、信仰者が今この世で「主と同じ姿に変えられていく」ことです。栄化とは、それが復活において完成することです。つまり、ウェアの言う「交換」のうち、人間がキリストにあずかり、キリストに似ていくという面は、聖化から栄化へと続く一つのプロセスとして理解できます。
ただし、山口氏も断っているように、人がキリストにあずかるといっても、人が神になるわけではありません。創造主と被造物との区別は変わりません。そのうえで山口氏は、「神と人とが本当に親しく交わるためには、お互いが似たものとなっていく必要があるという指摘にも大切な真理が含まれているように思われます」と述べています(210頁)。
天国と地獄を分けるもの
この「似ていく」という視点は、「救いの広さと深さ(2)」で考えた天国と地獄の問題にも光を当てます。
その記事では、同じ神の臨在が、それを願う人には喜びとなり、拒む人には苦しみとなるのではないか、と書きました。そして、ウェアが『正教会入門』で引くロースキイの言葉を紹介しました。
神の愛を自らの内に獲得しなかった者にとって、神の愛は容赦なき苦痛となろう。
ウェア、『正教会入門』、303頁
「交換」の視点から読むと、この言葉の意味がよりはっきりします。救いが神に似た者となっていくことであるなら、神に似ていった人にとって、神の臨在は親しい交わりの喜びとなります。しかし、神に似ることを拒み続けた人にとっては、同じ臨在が耐えがたいものとなります。神の臨在は、誰に対しても同じです。したがって、違いを生むのは、その前に立つ人がどのような者となっているかだと言えます。
同じ記事で紹介したN・T・ライトの言葉も、これに通じています。。ライトは『驚くべき希望』で、「人は自分が礼拝するものに似てくる」と述べていました。キリストにあずかる者がキリストに似ていくように、神ならぬものを礼拝する者は、そのものに似ていきます。つまり、人はいずれにしても何かに似ていきます。キリストに似ていくのか、それとも神ならぬものに似ていくのか。そこに違いが生まれるのです。
しかも、人がどのような者となっていくかは、一度きりの選択で決まるものではなく、生涯を通じて少しずつ形づくられていきます。ウェアも『正教会入門』で、地獄は神が人間を幽閉する場所というより、人間が自由意志を誤用して自ら閉じこもることを選んだ場所だと述べています(303頁)。
「救いの広さと深さ(2)」で考えたように、天国と地獄は、宇宙のどこかに別々にある場所でも、神が一方的に下す判定によって分けられるものでもありません。なぜなら、神は人を愛する方ですが、その愛を人に強いることはなく、人には応える自由が与えられているからです。二つを分けるのは、神の愛に応えて神に似ていくのか、それを拒み続けるのかという、人の歩みそのものなのだと思います。
法廷と交わり
では、ルターの「交換」と東方教会の「交換」は、どちらか一方を選ばなければならないものなのでしょうか。ウェア自身は、先の一節の続きでこう書いています(山口氏の訳)。
このモデルによる救いは、何よりも内住によって実現される――私たちのためのキリスト(Christ for us)であるよりも、私たちの内なるキリスト(Christ in us)である(もちろんどちらにも真理があるのだが)。(208頁、原著は42〜43頁)
ウェアは、東方教会が「内なるキリスト」に重心を置くことを認めながら、「私たちのためのキリスト」を否定してはいません。プロテスタントの伝統が大切にしてきたのは、キリストが私たちのために死なれたという前者です。しかしパウロは、後者もはっきり語っています。
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。
ガラテヤ人への手紙2:20(口語訳)
これまでの記事の中で、パウロの終末論シリーズにおいて、信仰者の希望を「栄光の望み」という言葉から考えましたが、その言葉が出てくるコロサイ書1:27も、この「内なるキリスト」を語っています。
この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。
コロサイ人への手紙1:27(口語訳)
信仰者のうちにおられるキリストこそが、やがて来る栄光の希望です。終末の希望もまた、「私たちの内なるキリスト」と切り離すことはできないのです。
山口氏はさらに、ウェアの参与的救済論が、E・P・サンダースの言う参与的終末論(participation eschatology)と非常に近いと指摘しています。サンダースは、パウロ研究の「新しい視点」(NPP)のきっかけをつくった学者として知られています。そして山口氏は、救いを「神との親しい交わりの回復」と定義するなら、虚構ではなく本物の「交換」が必要となるという洞察は傾聴に値する、と結んでいます。
一方で、先に見た須藤氏の指摘のように、ルターの「交換」にも参与の面があるとすれば、二つの「交換」は対立するものというより、互いを補い合うものとして読むことができます。
法廷のイメージは、罪が赦されることの確かさを語ります。交わりのイメージは、赦された者が神と共に生き、神に似ていくことを語ります。ウェアの言うように、どちらにも真理があります。ただ、救いを法廷の宣告だけで語ると、その後の交わりと変容が見えにくくなるように思います。「交換」を双方向の「本物」のものとして理解するとき、義認から聖化、栄化までが一つのプロセスとしてつながります。
ぼくどくメモ
日本でも少しずつ知られるようになってきたNPPは、伝統的な神学に取って代わるものとして受け止められることがあります。しかし須藤氏が書評で指摘しているように、NPPが目指しているのは伝統的神学の刷新です。また、須藤氏が紹介するルターの言葉からも分かるように、ルター自身も、キリストにあずかり、キリストと共に生きることを軽んじてはいません。むしろ、それを大切なこととして語っているように思います。
今回、NPPの研究者である山口氏の本と、ルター研究に携わってきた須藤氏の書評を併せて読み、二つの立場の間にも、互いに補い合う関係があることを確かめることができました。
宗教改革者として知られるルターも、もともとは教会から離れようとしていたわけではなく、教会の刷新を願っていたと言われています。現代でも、NPPのような新しい研究が、伝統的な立場への反論として「利用」される面が少なからずあるように思います。しかし大切なのは、その主張の要点を見極め、伝統を安易に批判するのではなく、互いに検討し合っていくことではないかと思います。
参考文献
・山口希生『ユダヤ人も異邦人もなく パウロ研究の新潮流』(新教出版社、2023年)、207〜210頁。
・須藤英幸「書評 山口希生著『ユダヤ人も異邦人もなく』」『キリストと世界』第34号、2024年、80〜85頁。
・Metropolitan Kallistos Ware, How Are We Saved? The Understanding of Salvation in the Orthodox Tradition(Minneapolis: Light & Life Publishing Company, 1996), 42–44.(山口氏の訳と引用による)
・ティモシー・ウェア、松島雄一訳『正教会入門 東方キリスト教の歴史・信仰・礼拝』(新教出版社、2017年)、303頁。
・N・T・ライト、中村佐知訳『驚くべき希望 天国、復活、教会の使命を再考する』(あめんどう、2018年)、299頁。
