はじめに
前編では、浅野淳博氏の論考「パウロにおける〈救い〉と普遍救済の可能性」(『福音と世界』2026年10月号)を読みました。
浅野氏は、パウロの書簡には普遍救済を語る言葉があり、それがパウロ自身の回心体験に根ざしていると論じています。そして論考の結びでは、「このような宗教間の対話を継続させた延長においてこそ、様々な宗教の信仰者が、それぞれの立場を尊重しつつ、救済という体験を祝う未来が開かれるのだろう」と述べていました。
論考全体を通して浅野氏が投げかけているのは、キリスト教の排他性についての問題提起だと私は受け止めています。救いをキリスト教の内側に限る理解に対して、パウロ自身の書簡の中に普遍救済を語る言葉があることを示し、その理解をパウロの側から問い直そうとしている、ということです。前編でも述べたように、この問いは教会が誠実に受け止めるべきものだと考えます。
前編の終わりで、私は、救いを範囲の問題としてだけでなく、パウロが歩んだ道とあわせて考える必要があるのではないか、と書きました。救いがどこまで及ぶのかという問いだけでなく、救いそのものが持つ豊かな広がりに目を向けるということです。
この記事では、この問いを、天国と地獄をめぐる理解から考えます。私自身は、天国と地獄が宇宙のどこかに別々の場所として存在するとは考えにくいと思っています。むしろ、神がこの世界を刷新されるとき、すべての人はその一つの世界で、神の臨在の前に立つことになるのではないかと考えています。神と共にいることを願う人にとって、その臨在は喜びです。しかし、神を忌み嫌う人にとっては、同じ臨在が苦しみとなります。このうち、同じ神が、ある人には喜びとして、ある人には苦しみとして経験されるという点は、東方教会(正教会)の地獄理解と重なるものです。後で紹介する正教会の主教カリストス・ウェアの著作に、この点についての記述があります。
以下では、関連する聖書の箇所と注解者たちの解釈を確認し、東方教会の伝統を紹介します。そのうえで、排他主義とも宗教多元主義とも異なる道について考えます。
パウロにおける救い
前編で見たように、パウロは救いを、すでに始まっていて、まだ完成していないものとして語ります。では、その途上にある救いとは、どのようなものなのでしょうか。
この点について示唆を与えてくれるのが、マイケル・ゴーマン(Michael J. Gorman)の参与の神学です。ゴーマンは、パウロにとって救いとは、キリストの十字架と復活にあずかり、キリストに似た者へと変えられていくことだと論じています。Becoming the Gospel の序章で、ゴーマンはパウロにとっての人間存在の目的を次のようにまとめています。
The goal of human existence, for Paul and for those who receive his words as Christian Scripture, is to participate now and forever, individually and corporately, in the very life and character of this cruciform, missional, world-redeeming God of righteousness and restorative justice (dikaiosynē).
パウロにとって、またパウロの言葉をキリスト教の聖書として受け取る人々にとって、人間存在の目的とは、個人としても共同体としても、今もいつまでも、十字架の形をとり、宣教的で、世界を贖う、義と修復的正義(ディカイオシュネー)の神のいのちと性質そのものにあずかることである。
Michael J. Gorman, Becoming the Gospel: Paul, Participation, and Mission, ed. John R. Franke, The Gospel and Our Culture Series (Grand Rapids, MI; Cambridge, U.K.: William B. Eerdmans Publishing Company, 2015), 6.ゴーマンはこの変容を、東方教会の神学用語を借りて「テオーシス」(神化)と呼びます。テオーシスとは、人が神の性質にあずかり、神に似た者へと変えられていくことを指す言葉で、東方教会の救済理解の中心にある概念です。ゴーマンはこれをパウロに当てはめ、次のように述べています。
For Paul in particular, I have argued in Inhabiting the Cruciform God, theosis should be defined as follows:
transformative participation in the kenotic [self-emptying], cruciform character of God through Spirit-enabled conformity to the incarnate, crucified, and resurrected/glorified Christ.
とりわけパウロについては、Inhabiting the Cruciform God で論じたように、テオーシスは次のように定義されるべきである。
すなわち、受肉し、十字架につけられ、復活して栄光を受けたキリストに、聖霊の力によって似る者とされることを通して、自らを空しくする(ケノーシス)、十字架の形をとった神の性質に、変えられつつあずかることである。
Michael J. Gorman, Becoming the Gospel: Paul, Participation, and Mission, ed. John R. Franke, The Gospel and Our Culture Series (Grand Rapids, MI; Cambridge, U.K.: William B. Eerdmans Publishing Company, 2015), 269.
この理解に立つと、救いはまず、誰が救われるかという範囲の問題としてではなく、人がキリストに似た者へと変えられていく過程として語られることになります。前編で見たパウロの苦難の道も、この変容の過程の一部として理解されます。
さらにゴーマンは、人間の救いを、被造物全体の解放(ローマ8:18〜25)や万物の和解(コロサイ1:19〜20)を含む、より大きな神のドラマの一つの面として位置づけています。そのドラマは、すべての舌がイエスを主と告白すること(ピリピ2:9〜11)を経て、神が「すべてにおいてすべて」となられること(1コリント15:28)で完成します。前編で浅野氏が取り上げたテキストを、ゴーマンは、キリストに似た者へと変えられていく救いの物語の一部として読んでいます。
なお、ゴーマンが「テオーシス」という東方教会の言葉を用いていることは見過ごせません。なぜなら、救いを、神との関係の中で神に似ていくこととして捉える理解は、後で見る東方教会の地獄理解とも深く結びついているからです。
天国と地獄はどこにあるのか
多くのキリスト者は、死んだら魂が天国へ行く、という理解を持っています。N.T.ライト著『驚くべき希望』は、この理解を聖書から問い直した本です。
ライトは黙示録21〜22章を取り上げ、新しいエルサレムが天から降ってくる場面に注目します。そして、これはよくあるキリスト教のシナリオの最終場面とは大きく違うと述べたうえで、次のように述べます。
私たちが天に行くのではない。ピリピ書三章にもあるように、天が地にやってくるのだ。
N.T.ライト、中村佐知訳『驚くべき希望 天国、復活、教会の使命を再考する』(あめんどう、2018年)、187頁
ライトはこれを「天と地の結婚」と呼びます。天と地は違うものでありながら、男と女のように互いのために造られており、最後に一つに結ばれる、という理解です(エペソ1:10)。ローマ8章が語る被造物のうめきも、この新しい誕生に向けた産みの苦しみとして読まれます。ライトによれば、新しい創造とは、現在の世界を捨てて最初から造り直すことでも、徐々に進歩していくことでもありません。
被造物に必要なのは、廃棄や進化でなく、贖いと刷新なのである。
N.T.ライト、上掲書、192頁
ライトはまた、新しいエルサレムには神殿がないことにも触れています(黙示録21:22)。神殿はもともと、神ご自身の臨在を指し示す道しるべでした。神の臨在が都全体を満たすとき、もはや道しるべは必要ありません。
この理解に立つと、天国は、宇宙のどこかにある地上とは別の場所ではなくなります。刷新された被造世界の全体が、神の臨在に満たされる。キリスト教の希望は、そこに向かっています。
そのうえでライトは、地獄を論じた章の結びで、次のように述べています。
しかしこの議論の最後に、また本書のこの箇所で、最も重要なこととして私が述べたいのは、「天国行きか地獄行きか」がキリスト教のすべてではないということだ。
N.T.ライト、前掲書、303頁
ライトによれば、個々の人間の運命は、全世界の救済と再創造という神の目的の文脈の中で理解されなければなりません。これは、前編で述べた、救いを範囲の問題としてだけ考えないという方向と重なります。
ただし、ライトが語っているのは、天と地が一つに結ばれる新しい創造についてです。地獄がこの新しい創造とどのように関わるのかについては、ここでは述べていません。神の臨在に満たされた一つの世界で、その臨在はどのように経験されるのか。それが次の問いです。
主の御顔から
この問いを考えるうえで避けて通れないのが、前編でも触れた2テサロニケ1:9です。
そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。
テサロニケ人への第二の手紙1章9節(口語訳)
この節で論点になるのは、「主のみ顔から」(ἀπὸ προσώπου τοῦ κυρίου)の「から」(ἀπό)の意味です。注解者たちの解釈は、大きく二つに分かれます。
なお、2テサロニケ書は、パウロ自身が書いたかどうかについて議論のある書簡です。ガヴェンタは、ますます多くの学者がパウロの真筆ではないと考えていると述べ、注解の中では一貫して「著者」と呼んでいます。一方、ここで取り上げる福音主義の注解者たちは、パウロの手紙として扱っています。
パウロ研究の動向をまとめた2024年の論集 The State of Pauline Studies で、テサロニケ書を担当したトゥース(Sydney Tooth)は、ドイツの研究者の多くが2テサロニケ書をパウロの名による後代の作品と見るのに対し、英国と北米の研究者の見解は分かれており、議論は膠着状態にあると整理しています。この記事では、この問題には立ち入らず、新約聖書の言葉として2テサロニケ1:9を読んでいきます。
※パウロ研究についての最新の動向はこちらの記事をご覧ください。
主の臨在からの分離
多くの注解者は、これを「主のみ顔から引き離されて」という「分離」の意味で読みます。私が確認した範囲では、ショグレン(ZECNT)、ホームズ(NIVAC)、ガヴェンタ(現代聖書注解)、モリス(TNTC)がこの解釈です。モリスは次のように述べています。
The final horror of sin is that it separates the sinner from God (cf. Isa. 59:2).
罪の最終的な恐ろしさは、それが罪人を神から引き離すことにある(イザヤ59:2参照)。
Leon Morris, 1 and 2 Thessalonians: An Introduction and Commentary, 2nd ed., Tyndale New Testament Commentaries 13 (Nottingham: Inter-Varsity Press, 1985; repr. 2009), 120.ホームズとガヴェンタは、この「滅び」が、パウロが救いを「いつも主と共にいる」こと(1テサロニケ4:17)として語るのと、ちょうど正反対の姿として描かれていることを指摘しています。救いが主と共にいることであるなら、滅びは主から引き離されていることです。どちらも、場所ではなく、主との関係によって定義されています。
主の臨在から出る裁き
一方、グリーン(Pillar)は、この「から」を、裁きがどこから来るのかを示す言葉として読みます。裁きは、主の臨在そのものから出てくる、という解釈です。グリーンは、この句がイザヤ2:10、19、21(七十人訳)の、人々が主の恐ろしい臨在から岩の間に逃げ隠れる場面をほぼそのまま引いていることに注目します。そして、黙示録20:11の「地も天も御顔の前から逃げ去って」という場面も挙げ、主の臨在は恐るべきものだと述べたうえで、次のように結論づけています。
The idea that 1.9 conveys is not merely that the disobedient will be excluded from the Lord’s presence but that from this presence the everlasting destruction comes forth.
1章9節が伝えているのは、不従順な者が主の臨在から締め出されるということだけではなく、その臨在から永遠の滅びが出てくるということである。
Gene L. Green, The Letters to the Thessalonians, Pillar New Testament Commentary (Grand Rapids: Eerdmans, 2002), 293.つまりグリーンは、主の臨在から締め出されるという意味を残しつつ、滅びそのものもまた主の臨在から出てくる、と解釈しています。この解釈に立つと、主の臨在は、ある人々にとって、それ自体が恐るべきものとなります。
グリーンが挙げている箇所ではありませんが、聖書には、神の臨在を「火」として語る箇所があります。ヘブル書は「わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である」(12:29)と述べています。また、イザヤ書33章には、このようにあります。
シオンの罪びとは恐れに満たされ、おののきは神を恐れない者を捕えた。「われわれのうち、だれが焼きつくす火の中におることができよう。われわれのうち、だれがとこしえの燃える火の中におることができよう」。
イザヤ書33章14節(口語訳)続く15〜16節には、「正しく歩む者、正直に語る者」が挙げられ、「このような人は高い所に住み」と記されています。
ここで「おる」と訳されている言葉は、ヘブル語のグール(גּוּר)です。もともと「寄留する」という意味で、身を寄せて住むことを表します。詩篇15篇にも、同じ言葉を用いた問いがあります。
主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。
詩篇15篇1節(口語訳)「やどる」と訳されているのが、このグールです。続く2節には、「直く歩み、義を行い、心から真実を語る者」と記されています。イザヤ書33:14〜16は、この詩篇とよく似た形をしています。つまり、焼きつくす火の中に「おる」とは、シオンにおられる神の臨在のもとに住まうことだと言えます。同じ火が、ある人にはおののきとなり、ある人には喜びとなるのです。
この解釈は、「はじめに」で述べた、同じ神の臨在がある人には苦しみとなるという理解と重なるところがあります。ただし、グリーン自身がそのように論じているわけではありません。グリーンは、この裁きは永遠であって取り消されることはなく、救いを得る二度目の機会はない、とはっきり述べています。
苦しむ共同体の叫び
ガヴェンタは、この段落の性格そのものにも目を向けています。
まず初めに、このテキストをその状況において綿密に注意深く読むと、これは誰が神に関して「内に」いて誰が「外に」いるかという筋の通った分析ではなく、神が自分たちの苦難に答えることなく放っては置かれないことを知っている小さな悩める共同体のための怒りの叫びである、ということがわかる。(186〜187頁)
B.R.ガヴェンタ、野田美由紀訳『現代聖書注解 テサロニケの信徒への手紙1、2』(日本基督教団出版局、2000年)、186-187頁
ガヴェンタによれば、著者はこの言葉を、迫害者に態度を改めるよう迫るためにでも、未信者の回心のためにでもなく、信仰者たちのために書いています。敵が打ち負かされ、自分たちは安堵を得るという約束から、苦しむテサロニケの信徒たちが慰めを得ることを、著者は望んでいるのだろう、とガヴェンタは述べています(188頁)。
ガヴェンタはさらに、この箇所で真に問われているのは、他の人々について何が語られているかではなく、私たち自身に対してどのような言葉が語られているかだ、と述べています。迫害の中にある共同体の現実からテキストを読もうとするこの視点は、前編で見た浅野氏の説明とも通じるものです。
人が自ら選ぶ道
では、神の臨在が、ある人には喜びとして、ある人には苦しみとして経験されるのは、なぜでしょうか。この点について、ライトとウェアは、方向の異なる二つの答えを示しています。
ライト:礼拝するものに似ていく
ライトは『驚くべき希望』で、地獄についての三つの見解(永遠の刑罰、普遍救済、条件的不死)を検討したうえで、独自の提案をしています。その出発点は、次の原則です。
人は自分が礼拝するものに似てくるのは、人間のいのちの重要な原則だ。
N.T.ライト、前掲書、299頁
神ならぬもの、たとえば金銭や権力を礼拝し続けると、人は次第に神のかたちを反映しなくなっていきます。ライトはこれを「非人間化」と呼びます。そして、その生き方に意識的に背を向けることなく進み続けた者は、最後には、かつては人間であったが、もはや神のかたちを担うことのない存在となり、神の憐れみも届かない彼方へと過ぎ去っていく、と述べています(296〜300頁)。ライトはここで、C・S・ルイス『天国と地獄の離婚』に登場する、最後に神から「あなたの思うとおりになるように」と言われる人々の話にも触れています。
このライトの議論は、先述のゴーマンの議論と表裏の関係にあります。キリストにあずかる者がキリストに似た者へと変えられていくように、神ならぬものを礼拝する者は、そのものに似ていきます。救いも滅びも、人が何に向かって生きるかによって形づくられていく、ということです。
ウェア:自ら閉じこもる
正教会の主教カリストス・ウェアは、『正教の道』で、神の裁きと地獄について述べています。ちなみに、カリストスは修道名で、修道誓願以前の著作『正教会入門』などでは、本名のティモシー・ウェアとして知られています。
ウェアによれば、神の裁きは終わりの日にだけ行われるのではなく、私たちの地上での生涯を通じて常に行われています。善を選ぶなら永遠の生命はすでに先取りされ、悪を選ぶなら地獄を前もって味わうことになる、というのです。そのうえでウェアは、地獄について次のように述べます。
審判者はハリストスである。しかし別の見方をすると、私たちを裁くのは私たち自身である。もし誰かが地獄にいるなら、それは神がその人をそこに閉じ込めたからではなく、そこがその人自身がそこにいることを自分で選んだ場所だということだ。
主教カリストス・ウェア、松島雄一訳『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』(新教出版社、2021年)、220頁
「ハリストス」は、日本の正教会でのキリストの呼び方です。
それでは、愛である神が、誰か一人でも永遠に地獄にとどまることを容認できるのでしょうか。ウェアはこの問いを、現世の私たちには推測できない大きな神秘だとします。そのうえで、対照的だが矛盾しない二つの事実を心にとどめるよう促します。一つは、神が人間に自由意志を与え、人は永遠に神を拒むことができること。もう一つは、愛は同情と配慮を意味することです。そこからウェアは、次のように続けます。
従って、もしだれかが永遠に地獄にいるならば、神はなんらかの意味で、その人たちと一緒にいるだろう。詩篇には『わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます』(139・8)と記され、シリアの聖イサアクは、『地獄にいる罪人が、神の愛から切り離されていると想像するのは誤りである』と言う。
ウェア、上掲書、220-221頁
神の愛はあらゆるところに及びますが、人の側にはそれを拒む自由があります。ただし、その拒否には必ず苦しみが伴い、拒否が次第に決定的になるにつれて、苦悩も増していく、とウェアは述べています。
共通点と違い
上述の両者は、地獄を、神が一方的に課す罰としてではなく、人が自ら選んだ道の帰結として捉える点で一致しています。また、その選択を一度きりのものとしてではなく、生涯を通じて少しずつ形づくられ、固まっていくものとして見る点でも共通しています。
しかし、そこから先は分かれます。ライトは、その道の果てに、神の憐れみも届かない地点を見ます。一方ウェアは、もし誰かが永遠に地獄にいるとしても、神はなんらかの意味でその人たちと共にいるだろう、と述べています。前の節で見た2テサロニケ1:9を「分離」として解釈するなら、ライトの描く結末に近づきます。他方、ウェアが引く詩篇139:8は、陰府にも神がおられることを語っています。
「はじめに」で述べた私の理解、すなわち、同じ神の臨在が、それを願う人には喜びとなり、拒む人には苦しみとなるという理解は、ウェアの理解に近いものです。ウェアは『正教会入門』で、次のように述べています。
地獄は神が人間を幽閉する場所ではなく、人間が自由意志を誤用することによって自ら閉じこもるために選択した場所である。そして罪を犯した者は地獄でさえ神の愛から切り離されない。自らの選択によって聖人が喜びとして経験するものを苦しみとして経験する。「神の愛を自らの内に獲得しなかった者にとって、神の愛は容赦なき苦痛となろう」。
ティモシー・ウェア、松島雄一訳『正教会入門 東方キリスト教の歴史・信仰・礼拝』(新教出版社、2017年)、303頁
最後のかぎ括弧の言葉は、正教会の神学者ウラジーミル・ロースキイからの引用です。
この違いは、聖書が語る裁きの厳しさと、神の愛の広さとを、それぞれどのように受け止めるかの違いでもあります。どちらも聖書の言葉に根ざした問いであり、どちらか一方だけを取ることはできません。
断定ではなく、希望と祈り
では、最後には誰もが神と和解するのでしょうか。ウェアは、『正教会入門』で、この問いに次のように答えています。
『全ての人が救われねばならない、もしくは救われるに違いない』と言うことは、自由意志を否定することになるので異端である。しかし全ての人が救われるよう望むことは正当である。(303頁)
ティモシー・ウェア、上掲書、303頁
ウェアによれば、正教会には、地獄は最後の可能性として存在するとしながらも、最後には全ての人が神と和解すると信じてきた「師父」(教父)たちもいます。しかし、それを断定することは退けられます。断定は、人が神の愛を拒む自由を奪ってしまうからです。一方で、すべての人の救いを望むことは正当とされます。だからこそ、終末の日が来るまで、いかなる人の救いもあきらめてはならず、誰一人として、とりなしの祈りから除かれてはならない、とウェアは述べます。そのうえで、シリアのイサアクの次の言葉を引いています。
『慈悲深い心とは何か』とシリアの聖イサアクは問いかけた。『それは創造物全体を、人を、鳥を、獣を、悪魔を、全被造物を愛によって焼く心である』。
ウェア、上掲書、303頁
さらにウェアは、ニュッサのグレゴリオスが、キリスト者は悪魔の罪の贖いさえ正当に望みうると述べていることにも触れています。
西方の聖書学者であるガヴェンタも、2テサロニケ1章の注解の結びで、これに近い考えを示しています。ガヴェンタは、パウロがローマ8章で被造物全体の贖いを期待し、ローマ9〜11章の苦闘を「こうして全イスラエルが救われる」(11:26)という言葉で結んでいることに触れたうえで、次のように述べます。
言い換えれば、いくつかの事柄(実際、多くの事柄)は、神自身の知恵に任せるのが最善なのである。
ガヴェンタ、前掲書、188頁
東方教会の主教であるウェアと、西方の聖書学者であるガヴェンタは、それぞれ異なる立場から出発しながら、互いによく似た考えに至っています。最終的な結末を人間が断定することは避け、神の知恵に委ねる。裁きの厳しさを語る聖書の言葉を軽んじることなく、聖書が語る神の救いの広がりに望みを置く。そしてウェアは、そこからさらに、誰一人としてとりなしの祈りから除いてはならない、と述べているのです。
この姿勢は、前編で浅野氏が光を当てたパウロの回心体験とも結びつきます。神は、敵であったパウロに、和解を差し出されました。救いの主導権は神にあります。しかしパウロは、その呼びかけに応えて歩みました。神が先に手を差し伸べ、人がそれに応える。その応答を神が強いることはありません。だからこそ、結末を断定することはできず、それでもなお、すべての人のために望み、祈ることができるのです。
排他主義でも宗教多元主義でもなく
「はじめに」で述べたように、浅野氏の論考は、キリスト教の排他性についての問題提起として読むことができます。この問いを、私も受け止めたいと思います。
そのうえで、この記事では、浅野氏とは別の方向から、この問いに応答してきました。ゴーマンが描くパウロの救いの物語は、すべての舌がイエスを主と告白し、神がすべてにおいてすべてとなられるところに向かっています。ライトが語る新しい創造も、キリストにあってすべてのものが一つに集められる世界です。この記事で見てきた希望は、どこまでもキリストを中心とした希望であり、その点で宗教多元主義とは異なります。
しかし同時に、それは排他主義とも異なります。排他主義は、誰が救われ、誰が救われないかを、人間の側で決めようとします。これに対して、ウェアやガヴェンタが示していたのは、その判断を神の知恵に委ねる姿勢でした。そしてウェアは、誰をも祈りから除外してはならないと述べていました。この姿勢の根本にあるのは、神をどのような方として理解するかということです。ウェアは『正教会入門』で、正教徒は神を「フィラントロポス」、すなわち「人を愛する者」と見なす、と述べています(303頁)。神がすべての人を愛される方であるなら、私たちもまた、すべての人の救いを望み、祈ることができるはずです。
浅野氏は論考の結びで、宗教間の対話を続けた先に、様々な宗教の信仰者が「それぞれの立場を尊重しつつ、救済という体験を祝う未来」が開かれるだろう、と述べていました。この記事で考えてきたことは、浅野氏のこの展望とすべて重なるわけではないかもしれません。それでも私は、人を愛する神が、敵であった者にさえ和解を差し出されたことを、より多くの人々が共に喜ぶ未来を望み、そのために祈りたいと思います。
ぼくどくメモ
前編と後編を通して、浅野氏の論考から多くのことを考えさせられました。
記事を書く中でいくつか資料を読み進めるうちに、この問題の根本にあるのは、人間の自由意志ではないかと思うようになりました。
「神の救いはすべての人に及ぶ」という言葉は、一見すると、とても響きのよいものです。しかしウェアは、「全ての人が救われねばならない、もしくは救われるに違いない」と言うことを「異端」と呼びました。なぜなら、それが自由意志を否定することになるからです。もし最後には誰もが必ず救われるのだとすれば、神を拒むという人間の選択は、結局のところ意味を持たないことになります。
神は人を愛する方です。しかし、その愛は人に強いられるものではありません。ライトが語る「礼拝するものに似ていく」人間の姿も、ウェアが語る「自ら閉じこもる」地獄も、人が自ら選ぶ道として描かれていました。同じ神の臨在が、ある人には喜びとなり、ある人には苦しみとなるのも、その臨在に人がどう応えるかによるのだと思います。
ただ、自由意志は希望を閉ざすものではありません。人が応える自由を持っているからこそ、終末の日が来るまで、誰の救いもあきらめることはできません。牧師として、私は宗教多元主義に立つことはできませんが、信仰を持たない人を救いから締め出したいとも思いません。誰が救われるかを断定することはせず、神の愛に応える人が一人でも多く起こされることを望み、祈りたいと思います。
参考文献
浅野淳博「パウロにおける〈救い〉と普遍救済の可能性」『福音と世界』2026年10月号、10-15頁
主教カリストス・ウェア、松島雄一訳『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』(新教出版社、2021年)
ティモシー・ウェア、松島雄一訳『正教会入門 東方キリスト教の歴史・信仰・礼拝』(新教出版社、2017年)
N.T.ライト、中村佐知訳『驚くべき希望 天国、復活、教会の使命を再考する』(あめんどう、2018年)
B.R.ガヴェンタ、野田美由紀訳『現代聖書注解 テサロニケの信徒への手紙1、2』(日本基督教団出版局、2000年)、166-167、183-188頁
Michael J. Gorman, Becoming the Gospel: Paul, Participation, and Mission (Grand Rapids: Eerdmans, 2015).
Gene L. Green, The Letters to the Thessalonians, Pillar New Testament Commentary (Grand Rapids: Eerdmans, 2002).
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Leon Morris, 1 and 2 Thessalonians: An Introduction and Commentary, 2nd ed., Tyndale New Testament Commentaries 13 (Nottingham: Inter-Varsity Press, 1985; repr. 2009).
Gary Steven Shogren, 1 & 2 Thessalonians, Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament (Grand Rapids: Zondervan, 2012).
Sydney Tooth, “1–2 Thessalonians,” in The State of Pauline Studies: A Survey of Recent Research, ed. Nijay K. Gupta, Scot McKnight, and Erin M. Heim (Grand Rapids: Baker Academic, 2024).
