手紙、電話、メール…。私たちが人と言葉を交わす手段は、時代とともに増えています。しかし、これほどまでにコミュニケーションの手段があるにもかかわらず、意見の隔たりが埋まったという実感は、あまりありません。
このような時代の中で、あらためて叫ばれているのが「対話」の必要性です。私も全く同感です。ただ、実際に「対話」をしてみると、そこで浮かび上がってくるのは一致よりも、むしろ相違点であることが多いのではないでしょうか。話せば話すほど、この人とは違うのだということがはっきりしてくる。そういう経験を、多くの方がお持ちだと思います。
しばしば、「対話は議論ではない」と言われます。議論は勝ち負けを争うが、対話は理解を目指すのだ、と。その区別は確かにあります。ですが、結果だけを見れば、対話も議論とさほど変わらないことがよくあります。つまり、対話をしたところで、なおも違いは残る。残るどころか、より鮮明になることさえある、ということです。
だとすれば、対話の先には何があるのでしょうか。
対話は何をするのか
まず大前提として、対話が一致を生まないからといって、対話に意味がないというわけではありません。
むしろ、違いを明らかにすることこそが、対話の働きなのかもしれません。話し合う前は、相手も自分と同じように考えているだろうと漠然と思っている。しかし、話してみて初めて、そうではないことがわかる。それは失敗ではなく、対話が機能した結果だと言えます。なぜなら、相手の考えを知ることなしに、人間関係は始まらないからです。
このように考えるなら、無理があるのは、むしろ「話せばわかり合えるはずだ」という期待の方ではないかと思います。対話という言葉には、そもそもそういった期待が含まれています。話し合いさえすれば、いずれ一致に至るはずだという前提です。
この期待を持ったまま対話に臨むと、一致に至らなかったときに、相手が誠実ではなかった、あるいは自分の伝え方が足りなかった、という結論に陥りやすくなります。そして次はもっとうまく伝えようとします。言葉を重ねれば、いつかは届くはずだと考えます。
しかし、現実は届かないことがあります。誠実に語っていたとしても、丁寧に聞いていたとしても、なお埋まることのない溝があります。
そうだとすると、先の問いは次の段階に進みます。つまり、対話によって違いが明確になったその後に、何が残るのか。一致しないまま、それでもその関係が続くとしたら、それを支えているのは何でしょうか。一言で言えば、対話にはどのような意味があるのか、ということです。
ことばは肉体となった
対話の先に残るもの、それは言葉以外のものではないでしょうか。
確かに、言葉には力があります。言葉は人を生かす力があります。ですが、同時に大きな問題も抱えています。それはすなわち、言葉には実態がない、ということです。
たとえば、「私はあなたと違う意見を持っているが、それでもあなたと共にいる」と言うことができたとしても、その言葉が真実かどうかは、言葉そのものからは確かめようがありません。
それでは、その言葉が真実であることはどのように知り得るのでしょうか。それは、その言葉を発する人がその言葉を具現化するかどうかによってだと言えると思います。
ヨハネの福音書の冒頭にこうあります。
そして言(ことば)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。
ヨハネによる福音書1章14節(口語訳)
ヨハネによる福音書の序文は、初めに言があった、と始まります。この言は神と共にあり、この言によってすべてのものが造られたと語られます。その言が、肉体となりました。
幕屋が建てられたとき
ここで「宿った」と訳されている語は、幕屋を張る、という意味の動詞です。
荒野を旅する人々の只中に、神が住まわれるために建てられたのが幕屋でした。神殿のような建物ではありません。天幕です。旅が進めばたたんで運び、次の場所でまた張る。留まるための場所ではなく、共に旅をするための住まい、移動式のテントです。
それでは、その幕屋はいつ建てられたのでしょうか。
シナイ山で神から律法が与えられ、神との契約が結ばれた直後、イスラエルは金の子牛像を造りました。神が四十日間、モーセに語っておられる、まさにその間に起きた出来事です。神とイスラエルとの関係は、結ばれたその場で壊れました。モーセは律法が刻まれた板を砕き、主は彼らを滅ぼすと言われます。
その後、主はモーセに向かってこう宣言されます。
主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神…
出エジプト記34章6節(口語訳)
末尾の「いつくしみと、まこと」は、他の訳では「恵みとまこと」と訳される語です。
この宣言の後に、幕屋の建設が始まります。
神が人々の間に住むと決められたのは、民が神を裏切らないことが確証できたからではありません。そうではなく、神との契約を破った後です。民は神をこれからも裏切る可能性は依然としてありました。その問題は根本的には解決しているわけではないのです。実際、民は同じことを繰り返します。しかしそれでも神は、天幕を張って、共に旅をする道を選ばれました。
ヨハネが「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」と書いたとき、この出来事が背景にあります。事実、その直後には「めぐみとまこととに満ちていた」と続きます。新約学者のクレイグ・キーナーは、ヨハネ1章14節から18節から浮かび上がるイメージは出エジプト記33-34章であり、多くの注解者がこの対応を認めていると述べています。
※Craig S. Keener, The Gospel of John: A Commentary, vol. 1 (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2012), 1:14–18.
ここでよく考えたいことは、神が人と共にいることを選ばれるのは、人間との違いが解消されたからではない、ということです。
とどまるということ
牧師にとって、言葉を語る「説教」は、中心的な務めの一つです。しかし、その言葉ですら、聞く人に届くかどうかはわかりません。
説教について様々な神学的理解があることは承知しているつもりですが、少なくとも私は、説教とは高いところから言葉を届けることではないと考えます。同じ説教を共に聞く共同体で、普段から顔を合わせている人たちに語る言葉は、「説教」よりも日常の交わりの中での方がずっと多いわけです。説教はその全体の一部であって、そこから切り離された言葉ではありません。もし普段の生き方と説教が切り離されてしまうならば、おそらく何も届かないだろうと思います。
対話についても、同じことが言えるのではないでしょうか。
言葉を尽くしても、埋まらない溝はあります。しかしそれは、対話が失敗したからではありません。むしろ、言葉が機能した結果だと言えます。
問題は、そこから先ではないでしょうか。自分との違いがはっきりした相手と、なお共にいることを選ぶかどうか。それは、意見が一致するかどうかではなく、相手との関係にとどまるかどうかで決まります。
言は肉体となりました。
語られただけではなく、その言ご自身が来て、私たちの間に幕屋を張られました。この事実を思うとき、分かり合えないからといって互いに批判し合うことに終始するのは、進むべき方向ではないように思われます。
現実的には分かり合えない、理解し合えない人と「共」に歩むこと。その一つの実践が「教会」という共同体だと思います。そこには、肉体を持った人々が共に集まります。そして当然のことながら、違う考えを持つ人もいます。しかしそれでも一つの共同体、それが教会です。
このことは、神ご自身がイスラエルの民にしてくださったことであり、イエス・キリストが私たちにしてくださったことです。あなたの考えがすっかり変わるまで議論を交わそう、ではないのです。たとえ考えや価値観が違ったとしても、共に歩んでくださるのが主なる神であると、聖書は一貫して語っているのではないでしょうか。
そうであるならば、理解し合えるかどうかで人を選別する昨今の状況は、逆の方向を向いているように思われてなりません。もちろん、自分と馬の合わない人と共にいることは苦痛かもしれません。しかし、ヨハネ福音書は、言が自分のところに来たのに、自分の民は受け入れなかったと語ります。共にいることには、代価が伴うのです。それでもなお、言は私たちの間に宿りました。
「共同体」に着目した本で読みやすいのはこちらです。
後藤敏夫『神の国を生きる キリスト教生活共同体の歴史』(いのちのことば社、2021年)
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