新約聖書学とボンヘッファー

新約聖書学の本を読んでいて、ディートリッヒ・ボンヘッファーの名前に出会うことはあまりありません。パウロ書簡の釈義を扱う議論の中に、彼が登場する場面は限られています。

そのため、ニジェイ・K・グプタ(Nijay K. Gupta)の新著『Paul for the World』(Brazos Press, 2026年)の序盤でボンヘッファーが取り上げられていることに、少し驚きました。しかも、引き合いに出される程度ではありません。グプタは本書の出発点を、ボンヘッファーの「世俗性」という概念から組み立てています。そして結論部では、ボンヘッファーより二十歳ほど若いドイツの神学者、ユルゲン・モルトマンが取り上げられます。ボンヘッファーが受肉から「聖なる世俗性」の霊感を得たとすれば、モルトマンは復活から、この世界を変える力を汲み取った、というのが著者の対比です。

この世界に生きるとはどういうことか。パウロならこの問いにどう答えるか。そこから出てきたのが、「聖なる世俗性(holy worldliness)」という本書におけるキーワードです。

では、グプタは何を問題にしているのでしょうか。それは、キリスト教がしばしば次のような意味合いで理解されてきたことです。つまり、この世界は仮の宿であり、本番は死後に始まる。今の生活は、待合室で順番を待つような時間にすぎない。日曜日は神の日であり、残りの六日間はそうではない。

これに対してグプタは、パウロの手紙がこのようには読めないと主張します。正義、経済、労働、友情等。日常を構成するこれらの事柄を、パウロは神学的に重要な問題として扱っています。

ただし、私はボンヘッファーの専門家ではありません。神学生時代に関心を持っていたのはパウロ研究で、ボンヘッファーについては『キリストに従う』と『共に生きる生活』等を読んだ程度です。なので、ボンヘッファー研究の全体像を扱うことは、この記事の範囲を超えます。また、モルトマンについても、今回は立ち入りません。

そのため、この記事ではパウロ書簡を軸に据えつつ、グプタの論を検討したいと思います。新約学者がボンヘッファーの概念を採用しているということは、そこにはパウロ書簡を解釈する上で、重要なつながりを見出したからだと思われます。

そして、本書でグプタが議論の中心に置いているのは、コリント教会です。

コリント教会の霊性

コリントの教会が抱えていた問題として、パウロが手紙の冒頭で取り上げるのは分派です。自分はパウロにつく、自分はアポロに、自分はケパに、自分はキリストにつく。そのような分派の問題が教会の中に生じていました(1コリント1章12節)。

しかしパウロは、これを教会内の人間関係の問題として処理しません。彼はただちに十字架の言葉へと議論を移します。十字架の言葉は滅びゆく者には愚かであり、救われる者には神の力である(1章18節)。この対比が、続く四章にわたる議論の軸になります。

では、なぜ分派の話が十字架の話につながるのでしょうか。グプタは、コリントの人々が抱えていたのは霊性の問題であったと分析しています。彼らは天的なもの、霊的なものを求めました。これは、求めたこと自体が誤りだったということではありません。それを他者に対する自分の優位を示すために用いたことが問題でした。

その構造は、パウロの皮肉に表れています。

あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。ああ、王になっていてくれたらと思う。そうであったなら、わたしたちも、あなたがたと共に王になれたであろう。

コリント人への第一の手紙4章8節(口語訳)聖書

自分たちはもう十分だと考える人々に対するパウロの言葉です。同じ4章の6節では、一方を高く、他方を低く見て思い上がることのないように、とも述べています。

これに対してパウロが示すのは、正反対の姿です。使徒たちは人々の見世物となり、飢えと渇きに耐え、罵られながら働いている(4章9節から13節)。霊的な高みを競う人々に示されたのは、より高い霊性ではなく、低さだったと言えます。

したがって、十字架につけられたキリストにあずかるとは、この低さにあずかるということです。パウロにとって、キリストと共に死に、共に生きるという事柄は、心の内側で完結するものではなく、他者に対してどう振る舞うかにまで及びます。

十字架と復活

十字架の言葉から始まったこの手紙は、最後に復活の議論へ向かいます(1コリント15章)。

コリントには、死者の復活はないと語る人々がいました(15章12節)。当時のギリシア・ローマ世界では、死後には何もないという理解も、肉体を離れた霊的な存在として続くという理解も、どちらも珍しくありません。いずれにしても、肉体をもった生が死の先へ続くという発想は、彼らにとって縁遠いものでした。

そのような聴衆に向けて、パウロは何を語ったのでしょうか。彼が主張したのは、身体が捨て去られるわけではないということです。太陽と月は、どちらも光を放ちながら、その輝きには差があります(15章41節)。そして、身体にも同じことが言えるとパウロは述べます。復活の身体は今の身体とは異なりますが、身体でなくなるわけではありません。

グプタは、この議論の意味をこのように捉えています。つまり、身体は魂を閉じ込めておく牢獄ではありません。いずれ脱ぎ捨てられるものでもありません。復活において起きるのは、身体の廃棄ではなく変容です。

ここに、この手紙の構造が現れています。グプタがゴーマンを引きながら述べているように、1章から4章で十字架とクルシフォーミティが語られたこの手紙は、末尾で復活の希望と、それが現在の生活にとって持つ意味を論じて閉じられます。パウロにとって、十字架と復活は別々の主題ではありません。

そして15章は、抽象的な議論では終わりません。

愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

コリント人への第一の手紙15章58節(口語訳聖書)

復活があるからこそ、今なされていることに意味がある。この順序が重要です。復活は、現在から目を逸らすための約束ではありません。

グプタが「聖なる世俗性」と呼ぶ発想の土台は、ここにあると言えます。

聖なる世俗性

コリントの人々は、霊的なものを求めながら、それを他者より上に立つために使いました。しかしパウロが語ったのは、復活が日常を支えるということでした。ここから、一つの方向が見えてきます。つまり、霊的であるとは、この世界を離れることではなく、この世界の中で、これまでとは違う生き方をするということです。

グプタは、この発想をボンヘッファーの「世俗性」という概念に重ねます。

世俗性という言葉は、通常は否定的に用いられます。世俗的であるとは、信仰から離れて世間の価値観に染まることを指します。ボンヘッファーはこの語を、それとは違う方向で用いました。グプタはこれを、この世界により深く関わることだと説明しています。神がこの世界を造り、なお愛しておられる以上、信仰者はこの世界を見捨てるのではなく、そこにあるものが贖われるように働くことになります。

この概念に「聖なる」を加えて、グプタは「聖なる世俗性(holy worldliness)」と表現しています。パウロがこの主題を語るとしたら、こう言うだろう、という言い換えです。

ただし、これは世俗性を無条件に肯定するものではありません。グプタは三つの態度を区別します。この世界に背を向けて彼方だけを見る態度。目先のものだけに心を奪われる「安価な世俗性(cheap worldliness)」。これはボンヘッファーの「安価な恵み」を踏まえた言い方だと思われます。そして、今ここでキリストに倣い、霊によって歩むこと。三つ目が「聖なる世俗性」です。

第1章の締めくくりで、グプタは次のように述べています。

Our life in the world can become holy, in all of its events and activities (in church and outside of church), when we dedicate everything to the Lord. That is “holy worldliness.” That is what Bonhoeffer called “the Beyond in the midst of our lives.”

すべてを主に献げるとき、私たちのこの世界における生は、教会の中であれ外であれ、そのすべての出来事と活動において、聖なるものになりうる。それが「聖なる世俗性」です。ボンヘッファーが「われわれの生の只中にある彼岸(the Beyond in the midst of our lives)」と呼んだものです。

Nijay K. Gupta, [Paul for the World: A Grounded Vision for Finding Meaning in This Life—Not Just the Next](Grand Rapids, MI: Brazos Press, 2026), 27.

では、ボンヘッファー自身は、この世界との関わりをどのように語っていたのでしょうか。

日本において、ボンヘッファーの著作の中では『キリストに従う』がよく知られています。「安価な恵み」を批判し、具体的な服従(キリストに従う生き方)が語られている本です。同じ時期に書かれた『共に生きる生活』も比較的知られているかもしれません。こちらを読むと、その具体性への要求が、共同体という場面で現れています。つまり、理想として思い描かれた交わりではなく、目の前にいる人々との交わりこそが重要だ、という主張です。

この態度は、コリントの人々の誤りと同じ構造を持っています。

共同体を壊す理想

『共に生きる生活』の第一章で、ボンヘッファーはキリスト者の共同体が壊れる原因を論じています。原因として挙げられるのは、外からの迫害でも、内部の対立でもありません。理想です。

真面目な信仰者ほど、共同体はこうあるべきだという明確な像を持っています。そしてそれを実現しようと努力します。ボンヘッファーは、この努力そのものが交わりを壊すと述べます。

キリスト者の交わりの中へ持ちこまれる人間的な理想像はみな、真正の交わりを阻害するものであるから、真正の交わりが存続しうるためには、それは打ち砕かれなければならない。

ボンヘッファー、森野善右衛門訳『共に生きる生活』(新教出版社、1975年)、15-16頁

理想を持ち込んだ者がたどる道筋を、ボンヘッファーは順を追って描いています。彼は要求する者として共同体に入り、自分の律法を立て、それによって兄弟と神を裁きます。思い通りにならないことを失敗と呼び、自分の像が崩れると、交わりが破れたと考えます。そして最初に兄弟を非難し、次に神を非難し、最後に自分自身を非難する者となります。

牧師として読むと、この箇所は重く響きます。教会員に対して批判的な思いを抱くとき、その根拠になっているのは、目の前にいる人ではなく、自分の中にある教会の姿です。批判しているつもりで、実際には自分の像との差を測っているにすぎません。

もう一つ、ボンヘッファーが述べていることがあります。理想が打ち砕かれる経験、つまり他者に対する幻滅も、自分自身に対する幻滅も、それは神の恵みだということです。神は感情をかき立てる神ではなく、真理の神である。だから、幻想の中に生きることを許されない。共同体が期待通りでないという経験は、失敗ではなく、真正の交わりへ導かれる過程に置かれています。

ここで、コリントの教会が重なります。彼らが手にしていた知恵や雄弁さは、自分の優位性を示す材料になっていました。自分は他の人より上に立っている、という思いです。ボンヘッファーが神の恵みによって打ち砕かれると語るのは、まさにそのような思いです。

罪の告白から始まる交わり

共同体に理想を持ち込んではならない。兄弟を批判してはならない。では、理想の代わりに何があるのか。『共に生きる生活』の最終章が扱うのは、この問いです。

そこで、ボンヘッファーが着目しているのが罪の告白です。

キリストは、われわれが彼を信じるようにと、肉においてわれわれの兄弟となり給うた。彼において、神の愛は罪人のもとへ来たのである。彼の前で、人は罪人であることを許されたし、またそのようにしてのみ罪人は助けを与えられたのである。

ボンヘッファー、『共に生きる生活』、111頁

理想を掲げる者は、あるべき姿と目の前の人との差を測ります。しかし、兄弟の前で自分の罪を口にする時、その「差」は問題になりません。なぜなら、告白する側も、それを聞く側も、同じ罪人だからです。ボンヘッファーは、主にある兄弟の前でのみ、人はありのままの罪人であることを許されると述べ、罪の告白において交わりへの通路が開かれると続けます。

この着地の仕方は、パウロの議論と重なるものだと言えます。コリントの人々は、自分がどれだけ霊的であるかによって、教会内での立場を確保しようとしました。しかしパウロは、逆の方向を指し示しました。つまり、強さを示し合う場としてではなく、弱さを認め合う場として、パウロは教会を描いているのです。

グプタの議論も、ここに重なります。彼が第8章で扱うのは友情ですが、そこで指摘されるのは、パウロが友情を表すギリシア語、フィリアやフィロスを一度も用いていないという事実です。動詞形のフィレオーは1コリント16章22節に現れますが、名詞としての「友」「友情」は、パウロ書簡に存在しません。

グプタは、その理由について二つの見方を挙げています。単なる偶然だとする研究者もいれば、当時この語が使われすぎて意味を失っていたために避けたのだとする研究者もいます。ただしパウロ自身が説明していないため、推測は難しいとグプタは述べます。あわせてマルクス・ボックミュール(Markus Bockmuehl)の指摘として、初期のキリスト教徒は全体として友情の語彙を避けていたことが挙げられます。「友情」という語は、新約聖書全体でヤコブ4章4節に一度現れるだけです。

そのうえでグプタは、語がないことと主題がないことを混同してはならないと注意します。パウロが用いたのは、別の語彙でした。

一つは「アガペー」です。ギリシア語には愛を表す語が複数あり、フィロスが最も広く使われていましたが、キリスト教徒はアガペーを自分たちの語として用いました。パウロは関連する語として「アガペートス」、つまり「愛する者」を約30回用いています。グプタによれば、パウロがこの「愛する者」に見ていたものは、アリストテレスが最も真実な友情と呼んだものと、意味合いとしては同じです。違いはパウロの言う「愛する者」が、キリストの贖いの働きと聖霊の変革する臨在を共に分かち合う相手だという点にあります。

もう一つは「家族」の語彙です。パウロは近しい同労者を「友」ではなく「愛する兄弟姉妹」(アデルフォイ)と呼びました。

パウロが友情を重んじていたことは、「コイノニア」という語の使い方にも表れています。グプタによれば、この語が指しているのは、キリスト教徒の集まりや聖書研究や小グループへの参加ではありません。良いことも悪いことも、浮き沈みも、喜びも悲しみも分かち合いながら、一つの生を共に生きることです。テサロニケの人々に対して、パウロは福音だけでなく自分の命までも分け与えたいと書いています(1テサロニケ2章8節)。

そしてグプタは、友情の要素として、互いに戒め合い、戒めを受け入れることを挙げます。追従者は真の友ではないというプルタルコスの警告を引きながら、パウロもまた、互いを正すことを友情の一部として理解していたと論じます。

ボンヘッファーも、理想と批判を退けたうえで、同じことを求めています。理想を基準にした批判は禁じられます。しかし、罪人同士が互いの前で正直であることは禁じられません。むしろ、それだけが交わりを成り立たせます。

そして告白も戒めも、心の中では終わりません。相手の顔を見て、口に出して言うことになります。信仰は、そこで具体的な行為になります。

新約学者がボンヘッファーを引くことの意味は、おそらくここにあります。信仰が心の中で完結するものではないとすれば、それは必ずどこかで具体的な形をとります。ボンヘッファーにとってそれは共同体の中の告白でしたし、グプタがパウロから読み取るのは、労働や経済や友情といった日常の領域です。どちらも、この世界を離れたところに信仰を置かないという点で一致しています。

ぼくどくメモ

最近、ボンヘッファーの邦訳書の出版が続いています。映画も公開されました。

私はボンヘッファーについて、あまり詳しくありません。学生時代に関心を持っていた研究の範囲では、彼が扱われることがなかったからです。新約学の議論の中で名前を見かける機会も、ほとんどありませんでした。

ただ、今回、パウロ研究者であるグプタが自著の枠組みとしてボンヘッファーを据えているのを見て、その認識を改めなければならないと感じています。今回ご紹介した本の中で、グプタ氏が主に用いているのは『抵抗と服従』です。手元にはありませんが、いつか読まなければならない一冊だと思っています。

今回あらためて考えさせられたのは、信仰と日常をどう結びつけるかという問題でした。日曜日の礼拝と、その後の一週間。この二つが別々のものになっていないか。パウロも、ボンヘッファーも、それぞれの仕方でこの問いに答えようとしていたのだと思います。

もう一つ、『共に生きる生活』を読みながら考えていたことがあります。グプタは、互いに戒め合うことを友情の要素として挙げていました。ボンヘッファーの場合は、罪の告白です。どちらも、互いに自分の罪を言い合えるような関係を前提にしています。自分が裁かれる側に立たないままの批判とは、別のものなのだろうと思います。

グプタ氏の本には、労働や経済や芸術についての具体的な議論が、まだたくさん残っています。いつか紹介できたらと思います。

さらに読むなら

ディートリッヒ・ボンヘッファー『共に生きる生活』(新教出版社)

この記事で扱った二つの箇所が出てくる本です。理想が交わりを壊すという第一章の議論と、罪の告白について述べた最終章です。分量は多くありません。フィンケンヴァルデの神学校での共同生活から生まれた本で、抽象的な議論はほとんど出てきません。教会の交わりについて考えたい方に向いています。

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ディートリッヒ・ボンヘッファー『キリストに従う』(新教出版社)

「安価な恵み」という言葉で知られる一冊です。悔い改めも服従も求めない恵みは、恵みという名前を借りた別のものではないか。ボンヘッファーはそう問いかけます。『共に生きる生活』とほぼ同じ時期に書かれた本です。

N・T・ライト『驚くべき希望』(あめんどう)

この記事で扱った論点、つまり復活が現在の生活にとって何を意味するのかを、正面から論じた本です。救いを死後の話に閉じ込めてしまう読み方への批判という点で、グプタの議論と重なります。日本語で読めるものとしては、この主題を扱った代表的な一冊です。

ティモシー・ゴンビス『力は弱さのうちに 牧会者パウロ 十字架の姿を生きる』(いのちのことば社)

パウロにおける弱さと力の逆転を扱っています。この記事で見たコリントの問題、つまり霊性を自分の優位の証しにしてしまう構造と、主題が重なります。