宗教について語られるとき、多くの場合、話の中心には「自分」が置かれています。自分はどうすれば救われるのか。何をすれば功徳が積まれ、何を避ければ罰を免れるのか。世間で共有されている宗教理解は、おおむねこのような傾向があります。
ここで『宗教』と『』を付けたのは、宗教という営み一般を指すためではありません。人間の側から神に到達しようとする態度、自分の努力や達成によって神との関係を成立させようとする姿勢を、便宜的にそう呼んでいます。キリスト教信仰は、この意味での『宗教』とは構造が異なると言えます。
同じ報酬をめぐるたとえ
マタイによる福音書20章1〜16節に、ぶどう園の労働者のたとえがあります。主人は夜明けに出かけて労働者を雇い、一日一デナリの約束で仕事に送ります。九時、十二時、三時、そして五時にも、同じように人を雇います。夕方、賃金が支払われる段になると、五時から働いた者にも一デナリが渡されます。朝から働いた者はもっと多く受け取れると期待しますが、支払われた額は同じでした。
朝からの労働者は主人に不平を言います。一日中、暑い中で働いた自分たちと、一時間しか働かなかった者を同じ扱いにするのか。主人の答えは、約束は一デナリだったはずであり、自分のものを自分の考えで用いることに何の問題があるのか、というものでした。
このたとえの解釈には、大きく二つの方向があります。
一つは、たとえをイエス自身の状況に置いて読む方向です。批判的な研究の流れでは、このたとえは、取税人や罪人と食卓を共にするイエスへの批判に対する応答として理解されてきました。律法を守り続けてきた人々から見れば、生活を改めたばかりの者が同じ神の民として迎えられることは不当に映ります。主人の応答は、その不当だという感覚そのものに向けられている、という読みです。
この読みを支えるのが、一デナリという額です。これは日雇い労働者の一日分の生活費にあたります。五時から雇われた者が労働時間に比例した額しか受け取らなければ、その家族はその日を食べていけません。しかも彼らは、誰も雇ってくれなかったと答えています(20章7節)。怠けていたのではなく、仕事にあぶれていた。主人が全員に一デナリを渡したのは、気前の良さの誇示ではなく、生活の必要への配慮です。
もう一つは、マタイ福音書全体の文脈に即して読む方向です。このたとえの直前、19章27節でペトロが、自分たちはすべてを捨てて従ってきたのだから何が与えられるのかと尋ねています。クレイグ・S・キーナーの注解も、19章30節からこのたとえの終わりまでを一続きのものとして扱っています。ペトロの問いとこのたとえは、切り離せない位置にあります。弟子であることに報いはある。しかしその報いを、働いた量に比例する分け前として計算し始めた時点で、報いの性質そのものを取り違えることになる、という理解です。
そして、これら二つの理解は対立するものではありません。どちらの読み方でも、たとえが否定しているのは同じことです。つまり、先に来た者は後から来た者より多くを受け取って当然だ、という考え方です。
不平の出どころ
朝から働いた労働者の不平は、労働の内容そのものに向けられていません。彼らは約束どおりの賃金を受け取っています。不満は、他の労働者と自分を比べた時点で生じています。
同じ構造は、ルカによる福音書15章の「失われた二人の息子(放蕩息子)」のたとえ話における兄息子にも現れます。家に留まり続けた兄は、弟のために祝宴が開かれたことに憤ります。長年父に仕え、言いつけに背いたことはないのに自分には何も与えられなかった、という彼の訴えには、父のもとで過ごした年月そのものが喜びであったという響きがありません。仕えることが目的ではなく対価を得る手段になっていたことが、弟が帰ってきたことで表面化します。
信仰生活が長いこと、戒めを守ってきたこと、献身的に奉仕してきたこと。それ自体は少しも悪いことではありません。しかし、それが自分の取り分を主張する根拠として意識され始めるとき、その中身は別のものに変わっています。
「律法の行いによらず」の意味
パウロは、義認は律法の行いによらないと繰り返し述べています(ガラテヤ2章16節、ローマ3章28節)。「義認」とは、神が人を義しい者として受け入れ、神の民の一員として認めることを表す神学用語です。
「律法の行い」が何を意味するかについては、研究者の間で議論があります。マイケル・ゴーマンは、この語句が律法の要求する道徳的行為を指すのか、それとも割礼や食物規定、暦に関する規定(安息日や祭りの守り方)といった、ユダヤ人と他の民族とを分ける目印(boundary markers)を指すのかで見解が分かれていると整理しています。後者は「パウロ研究の新しい視点」(NPP)と呼ばれる潮流の理解で、E・P・サンダース以降、J・D・G・ダン、N・T・ライトらが展開してきました。前者は宗教改革以来の理解に近い立場で、新しい視点との議論は現在も続いています。
ゴーマンは、どちらであるにせよ、あるいは両方であるにせよ、それを守ることが義認の根拠にはならないという点は変わらないと述べています。その上で彼は、義認の基盤を、”divine initiative followed by human response rather than human initiative followed by divine response”(神の主導に人間が応答するのであって、人間の主導に神が応答するのではない)と言います(Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God, Eerdmans, 2009, p. 81)。この順序が入れ替わったものが、冒頭で述べた『宗教』です。
「行い」には意味がないのか
では、行いには意味がないのか。パウロの答えは否です。
ゴーマンは、自分はキリストと共に十字架につけられたというガラテヤ2章19〜20節の表現が、義認をめぐる議論から切り離せないと論じ、これを「共十字架による義認」(justification by co-crucifixion)と呼びます。信仰とはキリストの死に参与することであり、その参与は生き方の変化を伴います。ゴーマンによれば、信仰と愛、義認と聖化を切り離すことはパウロにおいて不可能です。
同時にゴーマンは、共十字架が人間の達成ではなく神の恵みと霊の働きの結果であることを繰り返し確認しています。パウロが義認を受動態で語ることも、その裏づけとして挙げられます。
ただし、ここにも落とし穴があります。仕えること自体が喜びでなければ本当の信仰ではない、という主張は、それ自体が新しい基準(物差し)となり、自分の喜びが本物かどうかを測る作業に変わってしまう危険があります。ゴーマンの整理に従えば、喜びは達成すべき目標ではなく、参与に伴って与えられるものです。
「キリスト教は宗教ではない」と言えるか
信仰と『宗教』を区別する議論は、しばしば「キリスト教は宗教ではない」という言い方に行き着きます。標語としては歯切れが良いものの、そのまま受け取ると誤解を招きます。キリスト教には礼拝があり、教会暦があり、共同体の規律があります。宗教社会学の観点から見れば、キリスト教は明らかに一つの宗教です。
この記事で宗教に『』を付けてきたのも、そのためです。批判の対象は宗教という現象一般ではなく、神との関係を取引に変えてしまう発想です。礼拝も奉仕も規律も、取引の手段になることがあれば、恵みへの応答になることもあります。外から見える形は同じでも、そこで何が起きているか、その内実は同じではありません。
そして、パウロ自身、律法そのものを否定してはいません。ガラテヤ書でもローマ書でも、彼が退けているのは律法の価値ではなく、それを義認の根拠に据える考えです。同じことが、教会の生活のあらゆる部分についても言えるでしょう。
一デナリが意味するもの
ぶどう園の主人が全員に同じ一デナリを渡したということは、報酬をめぐる競争が終わったということです。競争が終わった場所で初めて、労働は見返りを得るための手段ではなくなります。朝から声をかけられ、その日の仕事が与えられたこと自体が、既に恵みです。夕方に受け取る一デナリだけが、与えられたものではありません。
『宗教』の落とし穴は、救いを自分の獲得物として計算し続ける限り、すでに与えられているものが勘定に入らなくなる点にあります。朝からの労働者が失っていたのは賃金ではありません。与えられた一日を恵みとして数える視点です。
ぼくどくメモ
信仰歴の長さが話題になることがたびたびあります。何年前に洗礼を受けたか、どれだけ奉仕を担ってきたか。それ自体はそれぞれの信仰の歴史であり、尊ばれるべき事柄です。ただ、その話が比較の色を帯び始めるとき、ぶどう園の労働者の声が重なって聞こえてきます。
自分自身についても同じです。説教の準備をしたり、話を聞いたり、あるいは会議に参加したりと、日々の働きはたくさんありますが、それらが誰かのためではなく、見返りを求めてのことになっていないか、確かめる作業は終わりません。一デナリが全員に等しいというたとえ話は、私にとって慰めであると同時に、点検の基準でもあります。
