はじめに

「救いとは何か、どうしたら救われるのか」という特集に、浅野淳博氏が「パウロにおける〈救い〉と普遍救済の可能性」という論考を寄せています(『福音と世界』2026年10月号、10〜15頁)。浅野氏は関西学院大学で新約聖書学を教える研究者で、J.D.G.ダン『使徒パウロの神学』(教文館、2019年)の翻訳者でもあります。

普遍救済とは、最終的にはすべての人が救われるという考え方です。浅野氏はこの考え方を、パウロ自身のテキストに即して検討しています。

論考の背後には、キリスト教は排他的ではないかという問いがあります。救いをキリスト教の内側にしか認めない立場は、他の宗教を信じる人から見れば不寛容に映ります。この問い自体は、教会が誠実に受け止めるべきものだと考えます。

この記事では、パウロ研究に長く携わってこられた浅野氏の論考を紹介しつつ、読みながら考えたことをまとめます。次回は、この論考をきっかけにして、「救いとは何か」という問いをもう一歩掘り下げます。

論考の主張

浅野氏の主張は、パウロの書簡には普遍的な救いを語る言葉があり、その言葉はパウロ自身の回心体験に根ざしている、というものです。

浅野氏が中心的な根拠とするのは、ローマ5:18のアダムとキリストの対比です。

このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。

ローマ人への手紙5章18節(口語訳)

浅野氏は、アダムの影響がすべての人に及ぶ以上、キリストの影響もすべての人に及ぶと読むべきだとします。この「すべて」を「ユダヤ人と異邦人の両方」などと限定する解釈を、浅野氏は法廷用語から借りて〈特別訴答〉と呼びます。事実そのものは認めながら、例外的な事情を持ち出して争う議論だ、という批判です。また、浅野氏は、ピリピ2:10〜11に注目します。この箇所では、天上・地上・地下のすべてのものがイエスの名によってひざをかがめ、「イエス・キリストは主である」と告白すると語られています。浅野氏は、ローマ10:9でこの告白が救いと結びついていることから、ピリピ2章を、全被造物が救いに至る姿を描いたものとして理解しています。なお、同じテキストから普遍救済を論じた先例として、教父オリゲネスを紹介しています。

一方で浅野氏は、パウロが救いと滅びを分けて語る箇所(2テサロニケ1:9など)があることも認めています。浅野氏はそれを、小さな共同体が自分たちのアイデンティティを保つ必要から生じたものと説明します。そのうえで、普遍的な救いの言葉が書簡に残った理由を、パウロの回心体験に求めます。浅野氏は、パウロが自らの回心を「神がイニシアチブをとる啓示体験」として受け止めていたと見ています。神に敵対していたさなかに、神の側から和解が差し出されたという体験です。

論考の結びで浅野氏は、カール・ラーナーの「無名のキリスト者」論が他宗教の側から受けた批判にも触れています。そのうえで、宗教間の対話について次のように述べています。

しかし、このような宗教間の対話を継続させた延長においてこそ、様々な宗教の信仰者が、それぞれの立場を尊重しつつ、救済という体験を祝う未来が開かれるのだろう。

浅野淳博「パウロにおける〈救い〉と普遍救済の可能性」、15頁

そして、パウロの普遍救済的な言葉が、この対話を前進させる手がかりになるかもしれない、と示して論考を結んでいます。

注目したい点

この論考で、とりわけ注目したいのは、パウロの回心体験から彼の神観を読み解く浅野氏の議論です。

浅野氏の読みに沿えば、パウロは神を求めて歩んだ末に救われたのではありません。神の民を守るつもりで、実際には神に敵対していたさなかに、神の方から呼びかけを受けました。つまり、救いの主導権は神にあり、人間の側の条件が先にあるわけではない、ということです。浅野氏はこの理解を、パウロの伝記的な体験と結びつけて示しています。普遍救済をめぐる議論を、パウロが実際に経験した出来事から考えようとしている点に、私は注目しました。

もう一つは、救いを限定するテキストも議論に含めている点です。浅野氏は、2テサロニケ1:9のように救いと滅びを分けて語る箇所があることを認めています。そのうえで、なぜパウロの書簡に救いの範囲について両極の言葉が並んでいるのかを説明しようとしています。このように、パウロの書簡にある言葉の幅を踏まえて議論が組み立てられている点にも注目しました。

読みながら考えたこと

以下は、論考を読みながら、私自身の問いとして考えたことです。

ローマ5章と第一コリント15章の前後の節

浅野氏が根拠としたローマ5:18は、アダムとキリストを対比するローマ5:12〜21の一部です。この箇所を読みながら私が気になったのは、直前の17節でした。

もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。

ローマ人への手紙5章17節(口語訳)

17節も18節と同じく、アダムとキリストを対比しています。ただし17節では、キリストによって、いのちにあって支配するのは、「恵みと義の賜物とを受けている者たち」とされています。18節で「すべての人」と言われているものが、17節では「受けている者たち」と表現されているのです。そうであれば、18節の「すべての人」も、恵みを受けた人々を指していると読むことができるのではないか。これが、救いを限定的に読む立場の考え方です。

第一コリント15章にも、似た構造があります。22節は「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされる」と語ります。そして、すぐ後の23節で、生かされる順序が「最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち」と説明されます。ここでも、22節の「すべての人」の内実が、23節で「キリストに属する者たち」として示されていると読むことができます。

一方で、普遍救済の立場からは、別の読み方も示されています。17節の「受けている者たち」は、救いが誰に及ぶかという範囲ではなく、救いをどのように受け取るかを述べたものだ、という読み方です。また、23節の「順序」は、ある人々を除外するためのものではなく、生かされる時の順番を述べたものだ、と読むこともできます。

どちらの読み方を採るかによって、「すべての人」の意味は大きく変わります。救いを限定的に読む注解者の多くがこの二つの節を根拠にしているので、浅野氏がこれらの節をどのように解釈されるのか、気になるところです。

ピリピ2章の背景

ピリピ2:10〜11は、イザヤ45:23の言葉を下敷きにしています(ex.新改訳2017の該当箇所の脚注参照)。イザヤ45章のこの箇所には、二つの面があります。22節で、主は「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる」と、すべての民を招いています。一方、23節に続く24節では、主に向かって怒る者は恥をこうむると語られます。

わたしは自分をさして誓った、わたしの口から出た正しい言葉は帰ることがない、「すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌は誓いをたてる」。人はわたしについて言う、「正義と力とは主にのみある」と。主にむかって怒る者はみな恥をこうむり、そのもとに来る。

イザヤ書45章22-24節(口語訳)

この24節に注目するのが、ハンセン(G. Walter Hansen)のピリピ書注解(Pillar New Testament Commentary)です。ハンセンは、すべての舌が「イエス・キリストは主である」と承認することについて、次のように述べています。

The expectation that every tongue will acknowledge that Jesus Christ is Lord does not mean that all creation will gladly offer praise and thanksgiving that Jesus Christ is Lord.

すべての舌がイエス・キリストは主であると承認するという期待は、全被造物が喜んで、イエス・キリストは主であると賛美し感謝をささげることを意味するのではない。

G. Walter Hansen, The Letter to the Philippians, Pillar New Testament Commentary (Grand Rapids: Eerdmans, 2009), 166.

ハンセンによれば、ここで「承認する」と訳される動詞(ἐξομολογέω)は、公に認めて表明することを意味します。そして、イザヤ45章で主を認める者の中には、主に向かって怒り、恥をこうむる者も含まれています。そのためハンセンは、「信仰の告白」と「主権の承認」を区別します。ハンセンによれば、この箇所が描いているのは、すべての被造物が教会と同じように、信仰をもってイエスを主と告白する姿ではありません。すべての被造物が、イエスが主であることを公に認める姿です。

他方で、ブラウン(Jeannine K. Brown)のピリピ書注解(Tyndale New Testament Commentaries)は、イザヤ45章を七十人訳の文脈に沿ってたどり、22節ですべての民が唯一の神に立ち帰るよう招かれていることにも触れています。そのうえで、次のように述べています。

Paul, surely aware of the intensity of expression of monotheism in this Scripture text, draws from it to affirm worship and acknowledgment of Jesus by all creation.

パウロは、この聖書箇所における唯一神信仰の表現の強さを十分に意識したうえで、そこから言葉を借り、全被造物によるイエスへの礼拝と承認を言い表している。

Jeannine K. Brown, Philippians: An Introduction and Commentary, ed. Eckhard J. Schnabel, vol. 11, Tyndale New Testament Commentaries (London: IVP, 2022), 124.

ブラウンはまた、「イエスは主である」をキリスト者の告白の典型と呼び、ローマ10:9を参照しています。ただし、それがすべての者の救いを意味するかどうかについては論じていません。

なお、二つの読みは全面的に対立しているわけではありません。ハンセンも、教会が今、イエスを主として礼拝することは、全被造物による将来の承認を先取りするものだと述べています。

ひざをかがめることと、ローマ10:9の救いに至る告白との関係について、私自身はまだ整理がついていません。ブラウンのように両者を結びつける読みがある一方で、ハンセンのように区別する読みもあります。ローマ10:9が、口での告白とあわせて、心で信じることを語っている点も考え合わせる必要があると思われます。

キリストを中心とするテキスト

論考は、救いを限定するテキストを、最初期の共同体の状況から説明しています。浅野氏によれば、弱小集団が生き残りのために共同体のアイデンティティを強めようとするのは自然なことです。そして、共同体のアイデンティティには二つの面があります。「我々は誰か」という問いによって内側の安定を得る面と、「我々は誰でないか」という意識によって外との境界を引く面です。パウロがキリスト共同体のアイデンティティを形づくり、保とうとする過程で、救われるのは誰で、誰でないかという排他的な救いの考え方も生じたのではないか。これが浅野氏の説明です。パウロの言葉を、それが語られた共同体の現実の中で読もうとするこの視点は、聖書を読む上で欠かせないものだと思います。

ただ、論考では、二つの言葉の出どころが異なる仕方で説明されています。普遍的な救いを語る言葉は、回心体験から形づくられたパウロの神観に根ざすものとされます。一方、救いを限定的に語る言葉は、共同体を形づくり保つ過程で生じたものとされます。この点が、私には少し気になりました。救いを限定的に語る言葉もまた、パウロが神をどのような方として理解していたかを表している、と読む余地はないでしょうか。そう読むなら、パウロの書簡にある二つの方向の言葉を、どちらもパウロの神理解から出たものとして、そのあいだにある緊張を含めて受け止めることになります。

論考の結びは、宗教間の対話に開かれた展望となっています。この展望を考える際に私が手がかりにしたいのは、論考が根拠としたテキストが、いずれもキリストを中心に語られていることです。ピリピ2:11ですべての舌が告白するのは「イエス・キリストは主である」という言葉であり、コロサイ1:20で神が万物をご自分と和解させるのは、御子によってです。キリスト教の排他性という問いにも、このキリストによる救いがどこまで及ぶのかという方向から応えられるのではないか。この論考を読んで、私が考えてみたいと思ったのはこの点です。

「救い」とは何かという問い

論考を読み終えて、もう一つ考えさせられたのは、「救い」とは何かという問いです。

論考では、「救い」は主に、最終的に誰が救われるのかという、救いの範囲の問題として論じられています。論考の主題が普遍救済の可能性である以上、自然な扱い方です。ただ、パウロの書簡では、救いはそれよりも広い意味を持っているように思います。そのことは、浅野氏が回心体験の根拠としたローマ5:10の後半にも表れています。

もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。

ローマ人への手紙5章10節(口語訳)

和解はすでに起きています。ですが、「救われるであろう」(σωθησόμεθα)とあるように、救いはこれから先に実現することとして語られています。ちなみに、口語訳の「であろう」は推量ではなく、確かな見通しを表しています。新改訳2017は、この箇所を「なおいっそう確かなことです」と訳しています。一方でパウロは、「救にあずかるわたしたち」(1コリント1:18)のように、救いを現在進行中のこととしても語ります。救いはすでに始まっていて、まだ完成していないものです。

回心したパウロは、迫害する側から迫害される側へと移り、その後の生涯で数多くの苦難を経験しました。パウロはその歩みを、キリストと苦難を共にし、キリストの死のさまにひとしくなる道として語っています(ローマ8:17、ピリピ3:10)。パウロにとって苦難は、救いと相反するものではありません。救いの途上にある歩みそのものでした。

ローマ8:17やピリピ3:10が示しているのは、救いを、パウロが歩んだ道とあわせて考える必要があるということではないでしょうか。救いを範囲の問題としてだけでなく、このような歩みを含めて考えるとき、「普遍的な救いとは何か」という問いは、どのように見えてくるのか。

浅野氏が先例として紹介したオリゲネスは、ギリシア語圏の教会で活躍した教父です。ギリシア語圏の教会の伝統は、今日の正教会を含む東方教会へと受け継がれ、救いを神との関係のあり方として深く考えてきました。次回は、この東方教会の伝統を手がかりに、排他主義とも、宗教多元主義とも異なる方向から、浅野氏が論考の結びで示した未来の姿について考えます。

ぼくどくメモ

キリスト教は排他的ではないか、という浅野氏の問題意識は、私にも理解できます。信仰を持たない家族や友人のことを思うとき、この問いを抱えている方は少なくないはずです。

この問いに対する応答として、一般的に挙げられるのはおそらく宗教多元主義でしょう。ですが、それ以外にも道はあるのではないか、と考えています。というのも、パウロが語った救いは、どこまでもキリストによる救いだと理解しているからです。ですが同時に、信仰を持たない人を救いから締め出したいと考えているわけでもありません。

この二つのあいだに道を探るとき、出発点になるのは、浅野氏が論考で光を当てたパウロの回心体験だと思います。神は敵であったパウロに、ご自身がイニシアチブをとって和解を差し出しました。その神が救いをどのように実現されるのか。浅野氏の論考は、この問いに立ち返るきっかけを与えてくれました。次回は、別の角度からこの問いを掘り下げてみます。

参考文献

浅野淳博「パウロにおける〈救い〉と普遍救済の可能性」(『福音と世界』2026年10月号)、10〜15頁

G. Walter Hansen, The Letter to the Philippians, Pillar New Testament Commentary (Grand Rapids: Eerdmans, 2009), 165–169.

Jeannine K. Brown, Philippians: An Introduction and Commentary, Tyndale New Testament Commentaries 11 (London: IVP, 2022), 123–127.


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