川が上げる「声」
5節からなる詩篇93篇の中心には、荒れ狂う水の轟きがあります。
主よ、大水は声をあげました。 大水はその声をあげました。 大水はそのとどろく声をあげます。
詩篇93篇3節(口語訳聖書)
ここで「声」と訳されているヘブル語は、קול(コール)と言います。翻訳によっては「轟音」と訳されることもあります。実際、川は口を開いて「声」をあげるわけではないので、現象としては轟音が正しいのでしょう。しかし、これが「詩」であることを考えるなら、あえて「声」と訳すことに深い意味があるように思います。
では、川があげる「声」とはどのようなものでしょうか。それは決して、おだやかなせせらぎではありません。「轟音」「とどろき」「激しい響き」といった別訳が示すとおり、荒れ狂い、迫りくる恐ろしい声です。古代近東において、荒れ狂う大水は「秩序を呑み込み、いのちを押し流す暴力的な力」の象徴でした。そのような背景を踏まえるなら、この3節で語られる川の「声」は、人間を脅かし、呑み込もうとする力を持った声だと言えます。
そしてこの「川の声」は、私たちの人生に襲いかかる困難と重なるものでもあります。困難はしばしば、大水の轟きのように私たちに迫ってきます。それは沈黙することなく、大きな声で、絶え間なく私たちを脅かし続けるのです。
圧倒的な神の「声」
一方で、聖書において、神の声もまた「轟くもの」として描かれていることに目を向ける必要があります。 シナイ山で神が民に語られた場面(出エジプト記19〜20章)は、静かなものではありませんでした。雷鳴がとどろき、角笛が鳴り響き、山は煙に包まれました。興味深いのは、この場面で用いられている「雷鳴」という言葉が、実は先ほどの川と同じ「קול(コール=声)」という単語であることです。 つまり、神の声は時に、天地を揺るがす圧倒的な轟音として響き渡るのです。川がどれほど脅かす声をあげようとも、それをはるかに凌駕する神の「声」が存在している。詩人はその真実を知っていました。
その声は御座に届かない
では、川の轟きは、神に対してどれほどの力を持っているのでしょうか。
主は高き所にいらせられて、 その勢いは多くの水のとどろきにまさり、 海の大波にまさって盛んです。
詩篇93篇4節(口語訳聖書)
ここで注目すべきは、この4節に「何が描かれていないか」ということです。ここには、戦いの場面がありません。主が川の声と必死に格闘し、これを押し返し、ようやく勝利した……といった描写は一切ないのです。 主はただ、「いと高き所におられる」とだけ述べられます。川の声がどれほど大きく轟き、暴れ狂おうとも、その飛沫すら神の御座には届かないということです。 川の声(困難の轟き)は、神の御座を1ミリも揺るがすことはできない。その視点に立つ時、詩人は苦難の中でも、恐怖に呑み込まれることなく堅く立つことができるのです。
轟音の中の拠り所
詩篇93篇は、最後にもう一つの「声」を示して閉じられます。
あなたのあかしはいとも確かです。 主よ、聖なることはとこしえまでも あなたの家にふさわしいのです。
詩篇93篇5節(口語訳聖書)
3節で暴力的で破壊的な声を上げていたのは川でした。それに対し、5節で語られるのは、主の「証し(約束の言葉)」です。この証しは、「いとも確か」と言われています。川の轟音のように人を脅かすのではなく、絶対に揺るがない信頼に値する言葉として、神の証しが存在しているのです。
ここに、二つの声の対比が浮かび上がります。それは、人を呑み込もうとする「川の轟音」と、人を確実に支える「神の確かな言葉」です。 もし私たちが川の轟音ばかりに耳を傾け、それに呑み込まれるならば、恐怖に支配され、確かな土台のない生を歩むことになってしまいます。しかし、主の確かな言葉(証し)に耳を傾けるならば、主の言葉と、主を礼拝する場(神の家)が、私たちの絶対的な拠り所となるのです。
詩篇93篇は、永遠の御座、世界の創造、そして荒れ狂う大水といった宇宙的スケールの主題から始まり、最終的に「あなたの証し」と「あなたの家」という二つの具体的な現実へと収束して閉じられます。
5節の「証し(エードート)」とは、神がご自身の性質や契約の真実を示された言葉を指します。そして「あなたの家」とは、旧約聖書の文脈においてはエルサレムの神殿を指していますが、その本質は物理的な建造物そのものにあるのではありません。それは、いと高き神の臨在が地上に現れ、主の確かな「証し(言葉)」が語られ、それに民が応答して礼拝をささげる交わりの場を意味しています。
この構造が意味しているのは、宇宙的なカオス(大水)がどれほど暴力的で不確実な轟音を響かせようとも、それに対抗し得る私たちの究極の拠り所は、啓示された「神の言葉」と、その言葉に聴き従う「礼拝」の内にこそあるという事実です。
いと高き御座におられる神は、決して手の届かない遠く離れた存在ではありません。その神は、私たちが立つべき確かな土台として「いとも確かな証し(御言葉)」を与え、私たちがとどまるべき場所として「神の家(礼拝)」をこの地上に備えておられます。世界がどれほど大きな声で轟こうとも、その声は人間の真の拠り所とはなり得ません。
繰り返しになりますが、詩篇93篇は、大水の轟きがやむとは約束していません。私たちを取り囲む困難な現実は、なお大きな声をあげて迫り続けています。
しかし、この詩篇が私たちに突きつけるのは、その轟音のただ中において、「私たちはどちらの声に支配されて生きるのか」という問いです。
私たちを呑み込もうとする大水の声に怯え、この世の価値観に同化して生きるのか。それとも、いと高き所から語られる神の確かな証しに耳を傾けるのか。私たちがとどまるべき神の家(礼拝)と御言葉の中にこそ、轟音のただ中にあっても決して揺らぐことのない、不動の拠り所が示されているのです。
