さつまいもの収穫の季節になりました。

植えたときに心配していた「つるぼけ」の傾向が見られ、葉が生い茂っていたので、収穫はできるだけ遅らせるようにしています。

さつまいもを掘るのは何年ぶりでしょうか。幼い頃に土を掘った記憶がかすかに残っている程度です。

掘っているところも写真に収めたかったのですが、畑仕事の最中はいつも手が泥だらけで、スマホを手に取るのがつい億劫になってしまいます。

こちらは、今朝収穫して、乾燥させているところです。

こうして並べてみると、どれ一つとして同じ形のものはありません。大きさもまちまちで、掘る途中で折れてしまったものもあります。スーパーに並んでいるような「きれいな」形のものは、この中の何割くらいでしょうか。

スーパーに並ぶのは、たいてい「規格」を通ったものです。形も大きさも揃っていて、何より見栄えがします。統計を調べたわけではありませんが、収穫したもののうち実際にどれくらいが出荷されているのか、気になりました。出荷に至らないものが相当数あることを思うと、農家の方々の苦労が少しわかるような気がします。

とはいえ、規格を通らなくても味は変わりません。

考えてみると不思議なことです。あの形、あの大きさでなければさつまいもとしては劣るのだと、いつの間にか思い込んでいた気がします。スーパーに並んでいるものが「普通」だと考えていたのです。

そこでふと思ったのは、人間にも「規格」があるのだろうか、ということです。

例えば、社会には「規格」のようなものがあります。どれだけのことができるのか、どれだけの成果を上げたのか、人からどう見えるのか。そうした基準によって、人は知らず知らずのうちに選り分けられています。確かに、それがあるからこそ社会が回っている面もあり、一概に否定することはできません。ただ、スーパーの規格が形や大きさしか見ないのと同じように、こうした基準もまた、人の見えやすい部分しか測っていません。

では、そうした基準とは別に、人間にはもっと根本的な規格があるのでしょうか。私は、あると思っています。聖書は、神の前に正しくあるという基準を語り、そのうえで、それを満たす人は一人もいないと語ります(ローマ3:23)。社会の規格であれば、通る人もいれば通らない人もいます。ですが、神の前の「規格」に関しては、人間は皆、規格を通らないさつまいもなのです。

それでも聖書が語るのは、そこで終わる話ではありません。

しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 

ローマ人への手紙 5:8(口語訳)

神は、規格を満たしたから喜ぶのではありません。満たしていない時から、すでに愛を示してくださっています。人の価値は、規格を通るかどうかによってではなく、その人を喜んでくださる方がいることによって支えられているのだと思います。

収穫したさつまいもを手に取り、形はいびつでも、よく実ってくれたと安堵する人がいます。さつまいもは、そのことを知りません。それでも、そういう人は確かにいるのです。

人間も、多くの場合、それを知らないまま生きているのかもしれません。自分が規格に合っているかどうかを気にかけ、合っていなければ価値がないと思い込んでしまいます。けれども、その人を見て喜んでいる方がいることは、本人が知っているかどうかとは関係なく、事実として変わりません。

目に見えるものがすべてではありません。

社会の規格も、それなりに大切です。しかし、それでは測りきれないものがあります。そして、規格を満たせない者をそれでも喜んでくださる方がいます。

自分を喜んでくれる存在がいるということは、本当にありがたいことです。それは、規格を満たすことで自分の価値を証明しなくてもよい、ということでもあります。言い換えれば、愛を自分の力で勝ち取る必要がないということです。そうであれば、肩の力を抜いて日々を歩むことができますし、自分を証明するために使っていた力を、人のために使うこともできるようになります。しかもそのとき、相手を規格で測る必要もありません。なぜなら、規格で測られることなく存在そのものが喜ばれる、その喜びを自分が知っているからです。だからこそ、他の人の存在も喜ぶことができるのではないでしょうか。