先日、うどん粉病になりがらも育ってくれたかぼちゃの第一号を、ようやく収穫することができました。

本来、かぼちゃの収穫適期は、実につながる茎の部分がコルクのように茶色くなり、十分に乾いてからとされています。しかし今回は、うどん粉病が株全体に広がってきていたこともあり、少し早めに切り取ることにしました。

茎の部分がまだうっすらと緑がかっていたため、中身は大丈夫だろうかという不安もありましたが、切ってみると、果肉はしっかりとしており、食べてみると程よい甘みがあります。病気を抱えながらも、実は着実に力を蓄えてくれていたのだと知り、なんだかありがたい気持ちになりました。

収穫できたことがうれしくて、その日のうちに大きめのものを三つ切り分け、用事で会った方々にお裾分けをしました。

しかし後になって、この判断が少し早すぎたことを知りました。

かぼちゃという野菜は、収穫してすぐに食べるよりも、1~2週間ほど風通しのよい場所で「寝かせる」方が、味が良くなるのだそうです。収穫後の期間中に、実の中のデンプンがゆっくりと糖に変わり、甘みが増していくためです。この工程を「追熟」と呼ぶそうです。

つまり、収穫した直後のかぼちゃは、まだ本来の甘みが引き出されていない状態であり、私はそのことを知る前に、お裾分けをしてしまったことになります。収穫で終わりだと思っていたことに、浮き足立っていた自分自身の不勉強さを思わされました。

ただ、この小さな失敗を通して、教えられたこともあります。それは、「収穫という一つの区切りが、必ずしも完成ではない」ということです。

私は正直、収穫が済んだ時点で、かぼちゃの営みは一段落したものと思い込んでいました。しかし実際には、収穫の後にも、見えないところで実の中の変化は続いていました。人の目には何も起きていないように見える1~2週間の間に、デンプンは糖へと姿を変え、かぼちゃは着実に甘さを深めていきます。命の営みは、私が「終わった」と判断したその先にも続いていたのです。

考えてみると、これはかぼちゃに限った話ではないのかもしれません。

私たちはしばしば、何かを成し遂げた瞬間や、目に見える結果が出た瞬間を「完成」と考えます。そして、そのあとの時間を、いわば「余白」のようなものとして扱ってしまいがちです。しかし、本当に良いものは、そのあとの時間の中で、少しずつ熟していくのかもしれません。

聖書のマルコによる福音書に、こんなたとえ話があります(4:26-29)。ある人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出し、成長していく。しかし、どうしてそうなるのかを、その人は知らない。

種を蒔いた後の時間は、農夫にとって、いわば「手を離す時間」です。自分の力ではどうにもできない時間です。しかし、その手の届かない時間の中でこそ、命は着実に育っていきます。

追熟の期間も、それに似ています。ただ置いておくだけの1~2週間の間に、かぼちゃの中では確かな変化が進んでいます。人の努力が終わったあとに、なお続いていく命の働きがあるのです。

そう思うと、私たちが「もう自分の手を離れた」「もう自分にできることは終わった」と感じるその先にこそ、神様が働いてくださる余地が広がっていると言えるのかもしれません。慌てて結果を刈り取ろうとせず、時が満ちるのを待つ。手を離した時間を、無駄な空白としてではなく、恵みが働く時間として信頼する。それは、思い通りにコントロールしようとする私にとって、なかなか難しい態度でもあります。

ですが、今回の急いでお裾分けをしてしまったという小さな失敗を通して、待つことの意味について考えさせられることとなりました。目に見えるものが全てではないことを知ることは、きっと生き方そのものにも良い変化をもたらすことでしょう。

次に、かぼちゃを収穫した時には、しっかりと追熟の期間を置き、本来の甘みが引き出されてから、心を込めてお裾分けをしようと思っています。