大庭貴宣著『エイレナイオスの聖霊神学 2世紀に解き明かされた三位一体と神化』(ヨベル、2022年、285頁)
①この本を手に取った理由
当サイトでは、マイケル・ゴーマンの著作を通して、パウロの救済論を「テオーシス(神化)」として読む視点を紹介してきました。ゴーマンは、信者がキリストの「十字架の姿」へと形づくられていくことを、神のいのちへの参与、すなわちテオーシスと呼びます。それでは、この「神化」という教理は、そもそもどこから来たのでしょうか。
その源流をたどると、二世紀の教父エイレナイオスに行き着きます。本書の著者である大庭貴宣氏によれば、エイレナイオスの著作には、人間が「神に似たものとなる」あるいは「神と一つになる」ことを意味する「神化」についての最も古い記述が見出されます(序論、3〜5頁)。
本書は「二世紀の教父であるエイレナイオスが、どのような聖霊理解を持っていたかを明らかにすること」を目的とした研究書です(序論、3頁)。著者はその考察を二つの軸で進めます。第一は、エイレナイオスの聖霊理解が彼の神化思想とどう関わるか。第二は、彼の三位一体理解において聖霊がどのような役割を果たしているか、です。学術書ではありますが、章ごとにまとめが置かれており、議論の筋道を追いやすい構成になっています。
②神化とは「神になること」ではない
「人間が神となる」と聞くと、多くの読者は戸惑いを覚えるはずです。しかし、エイレナイオスの神化思想は、人間が神と同等の存在になることを意味しません。著者が繰り返し確認するように、神は造る方であり、その一方で人間は造られたものであって、両者の区別が消えることはありません(第2章、85〜86頁)。
では、何が「神となる」ことなのでしょうか。鍵になるのは、人間が創造の最初から「神の子ら」として造られていた、というエイレナイオスの理解です。彼は『異端反駁』に「本性に従えば、すなわち、創造に従えば、私たちは皆、神の子らである」と記しています(『異端反駁』第4巻41章2節、本書86頁より)。神化とは、神と無関係な存在が神に変貌することではなく、初めから神の子として造られた人間が、その本来の姿の完成に至ることを指します。
エイレナイオスは「神のかたち」(imago)と「神との類似性」(similitudo)を区別します。堕罪において人間が失ったのは後者の「類似性」であり、それは「不滅性」とほぼ重なる概念です。著者によれば、エイレナイオスの関心は、堕罪による罪責の問題以上に、この「類似性」の喪失とその回復に向けられています(第2章、89頁)。救済史とは、失われた類似性が回復されていく物語にほかなりません。
③三位一体の協働と「慣れ」のモチーフ
本書の読みどころは、神化の全過程を三位一体の協働として描き出す点にあります。エイレナイオスは御子と聖霊を父なる神の「両手」と呼びました。人間は神の両手によって造られ、堕罪の後も、両手の働きによって回復へと導かれます。
その転換点が御子の受肉です。エイレナイオスによれば、人間が類似性を失ったのは、目に見えない御言葉(御子)をまだ見たことがなかったためでした。受肉した御子を実際に「見ること」によって、人間は自らが神のかたちに従って造られた存在であることを思い出します(第5章、226〜227頁)。
さらに著者は、受肉のもう一つの意味を指摘します。御子がヨルダン川で洗礼を受け、聖霊が降ったことにより、聖霊は人間の「肉」のうちに宿ることに「慣れた」というのです(第3章、150頁)。それ以後、洗礼を受ける信者にも聖霊が内在する道が開かれました。著者は結論部で、この「慣れ」に二つの側面があることを示します。人間が神を捉えることに慣れ、神が人間のうちに住むことに慣れる(結論、273頁)。神化とは、神と人間が互いに「慣れて」いく歴史でもあります。
④強制しない神と、完成へ向かう成長
エイレナイオスの神観で印象深いのは、「善き神」(bonus Deus)が人間に決して強制しない、という点です。神は人間を「自立性」を持つ者として造り、善を選び取るよう「助言」を与え続けます。人間の失敗や堕罪さえも、神は「寛大さ」をもって忍耐し、教育の機会として用います(第2章)。人間は幼児のような状態で造られ、訓練と成長を通して、聖霊を受けられる者へと整えられていきます。
それでは、救いは人間の努力によるものなのでしょうか。エイレナイオスの答えは慎重です。聖霊を受けた人間は「霊の行い」によって「霊の実」を結び、「霊との交わり」に生きるようになります。しかし著者が強調するとおり、行いそのものが人間を救うのではありません。エイレナイオスは端的に記しています。「一体、何が救うのか。彼(パウロ)は言う。私たちの主イエス・キリストの御名と、私たちの神の霊である」(本書235頁より)。人間の行いを強調する立場と、神の一方的な救済を強調する立場との、いずれにも回収されない救済理解がここにあります。
そして、注目に値するのは、この成長が復活で終わらない点です。エイレナイオスによれば、人間は復活の後もなお「神への再生」の過程を歩み、ついに神を見て、類似性の完全な回復すなわち不滅性を与えられます(第5章、249〜250頁)。神化は一回的な出来事ではなく、終末に至るまで続く成長として描かれます。
⑤本書をおすすめする理由
エイレナイオスの神化論と聖霊論を日本語でまとまった形で読める書物は多くありません。原典からの丁寧な引用に基づいて議論が進むため、『異端反駁』や『使徒たちの使信の証明』への案内としても有益です。M.J.ゴーマンやN.T.ライトを通して「参与」や「テオーシス」に関心を持った読者には、その教父的な源流を確かめる格好の一冊と言えます。
ぼくどくメモ
私がこの本を読みながら考えていたのは、ゴーマンの描くテオーシスとの違いでした。ゴーマンにおいて神化は、十字架の形(姿)へとあずかること(変えられること)、すなわちクルシフォーミティと結びついています。一方、エイレナイオスにおいて神化は、幼児が大人になるような成長の物語です。前者は十字架の逆説を、後者は神の忍耐を際立たせます。
けれども両者は、完成が未来にあるという一点で結ばれています。エイレナイオスの神は、人間のうちに住むことに慣れるために受肉し、人間が神に慣れるまで待ち続ける神です。牧会の現場では、信仰の成長の遅さに焦る声を聞くことがあります。二世紀の教父が残した「慣れ」の神学は、その焦りに対する古くて新しい応答であるように思われました。
書誌情報 大庭貴宣『エイレナイオスの聖霊神学 2世紀に解き明かされた三位一体と神化』ヨベル、2022年、285頁
※ちなみに、本書には大貫氏による書評があります。本のひろば「神学的貢献の可能性とその限界を鮮明にし、今後にも期待する一書」
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