ヨハネの手紙第一1章1-4節「永遠のいのちを知らせる」

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 キリスト教にとって「永遠のいのち」は、重要な事柄の一つだと言えますが、誤解を恐れずに言えば、似たような教えはこの世界にはいくらでもあります。しかしながら、それは表面的な意味において似たようなものだということです。もしも、字面だけ見るならば、それは「死ぬことのない命」となるわけですが、大抵の場合、そのような命を欲しがるのは「自分のため」です。自分が長く生きたいから、苦しい思いをしたくないから、そのような命を欲するのではないでしょうか。
 この点が、聖書の教える「永遠のいのち」と決定的に異なるところです。聖書を読んで分かることは、「永遠のいのち」とはイコール「自分一人だけの幸せ」ではないということです。それは何のためのいのちであるのか、このことを理解して初めて「永遠のいのち」とはどのようなものであるのかがわかり始めるのではないかと思います。

 日本語訳聖書の中には、漢字の「命」ではなく、ひらがなで「いのち」と表記するものもあります。これは翻訳聖書の工夫の一つですけれども、いわゆる「命」では説明し尽くせない意味が、原語(ギリシア語)にはあることをひらがなで「いのち」と書くことで表そうとしています。ヨハネはキリストを「永遠のいのち」と表現しました。この時、ヨハネはイエス様がこの先もずっと死ぬことなく、長生きするだろうから、このように表現したわけではないことは明らかです。ヨハネはキリストを見た時、そこに「永遠」を見ました。すなわち、今の時代とは全く異なる「新しい時代」を見たのです。言い換えるならば、ヨハネはこの世とは全く異なる新しい生き方を身をもって体験したということです。ここにキリストの「いのち」が明らかにされました。

 ヨハネ曰く、このいのちは、耳で聞くことができ、目で見ることができ、手で触ることができるものです。ということは、この「いのち」は具現化されるものであると言えます。どのように具現化されるのでしょうか。それは生き方を通してです。ヨハネは「永遠のいのち」つまり「新しい時代の生き方」を目の当たりにしました。聖書が信仰者はすでに永遠のいのちを持っていると言っているのはまさにこのことで、イエス様を信じる信仰者は、すでにイエス様にならった生き方を始めているということです。「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハネ5:24)。

 それでは、何のために「永遠のいのち」が与えられ、そのような新しい時代の生き方を始めるのでしょうか。それは、もちろん、自分のためではなく、人のためです。共に喜びを分かち合うためです。永遠のいのちは決して、ただの知識でも、ただの教えでもありません。それは私たちの生き方を通して表されるものであり、それは分かち合われるものであり、そこから喜びが溢れ出るものです。それは、聞いて、見て、触れられるほどに、具現化されるものです。そのことを身をもって教えてくれたのがイエス様です。共に生きること、共に喜び、共に悲しむこと。このように「共に」生きることを神様は私たちに求めておられるのではないでしょうか。そのことを教えるために、そしてそれが単なる知識で終わることのないようにと、ヨハネは「永遠のいのち」を知らせています。

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