ヨハネの手紙第一の最後の一文は、5章21節の「自分自身を偶像から守りなさい」となっています。一見すると、手紙が唐突に終わっているかのような印象を受けます。ですが、むしろこの手紙が語ろうとしていることが、最後の一文にかかっているとしたら…そう考えて読むと、手紙の理解がさらに深まるのではないかと思います。
偶像と聞いて思い浮かぶのは、人の手によって作られた「像」です。実際、聖書の中で偶像についてこのような言及が見られます。
異邦の民の偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。
詩篇135篇15-17節(新改訳2017©️新日本聖書刊行会)
口があっても語れず 目があっても見えない。
耳があっても聞こえず またその口には息がない。
このところから言えることは、偶像というのは要するに「意思がない」ということです。それは、人間の手によって作り上げられたものであって、いわば人間の思いを反映するものです。言わせたいことを言わせることができ、人間の理想を投影するものが「偶像」です。
このように聞きますと、クリスチャンにとっては、自分と偶像は無関係だと考えることが多いように思います。ですが、実は、クリスチャンの方が偶像礼拝に陥りやすいというのが『ヨハネの手紙第一』が言わんとしていることではないかと思います。
この手紙で繰り返されることの一つに、神の真理、まことの知識というテーマが挙げられます。ヨハネが「あなたがた(私たち)は知っている」と繰り返すということは、この手紙の受け取り先であるヨハネ共同体は、その真理から離れていたということが考えられます。離れた結果、イエスをキリストと告白するかどうかで共同体が分断されていたという事態に直面していたようです。そのような共同体に対して、神の真理について改めて教えているのがこの手紙のポイントであるように思います。
実際、手紙の冒頭はこのような言葉から始まります。
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
ヨハネの手紙第一1章1-2節(新改訳2017©️新日本聖書刊行会)
この言葉から思い出されるのは、先ほどの偶像に関する詩篇の箇所ではないでしょうか。偶像というのは、人間の手によって作り上げられた意思のない言葉、人間の願望が投影されたものに過ぎないけれども、神のことばはそのようなものではなく、イエス・キリストという「いのち」を通して現されたものであるということです。ヨハネはこのような対比を手紙の冒頭と結びでしているように思われます。
このように考えるなら、クリスチャンが陥りやすい偶像礼拝の問題が浮かび上がってきます。それはつまり、真の神のことばを、いつの間にか自分の都合に合わせて変えてしまう、混ぜ物をして薄めてしまうということです。例えば、2章では「神の命令」として、神と人とを愛するということが語られていますけれども、いつの間にか、神の命令のハードルを自分自身に合わせて下げてしまうということが誰にでもあるのではないかと思います。そうなりますと、そのことばはもはや神のものではなく、偶像の言葉となってしまうということです。
神のことばというのは、人間の意思ではなく、神の意思によるものです。ですので、時に親が子供を叱るように、厳しく感じることもあります。ですが、そのことを通して、人格が磨かれ、成長するということがあります。反対に偶像の言葉は、人間の思いでもありますので、意思を持たず、人間が願う甘い言葉しか語りません。しかしながら、いつの間にか、神のことばをそのようなものにしてしまってはいないか、とヨハネは問うているのだと思います。神のことばを自分の都合のよいように解釈していないか、と。だからこそ、何度も「私たちが知っていること」を繰り返すことで、原点に立ち返るようにと訴えているのではないかと思います。
ところが、このように聞きますと、神の求めるレベル、そのハードルは高いと感じ、戸惑いを覚えてしまうのもまた事実です。私たちは本当に神のことばをありのまま受け入れ、実践しようとしているのか、あるいはできるのか、考えさせられます。しかし、だからこそ、ヨハネは繰り返し、クリスチャンが生かされている「現実」を語ります。それは、一言で言うならば、すでに「永遠のいのち」を持っているということです。
神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。
ヨハネの手紙第一5章13節(新改訳2017©️新日本聖書刊行会)
「永遠のいのち」というのは、まさに今クリスチャンとして生かされている現実です。確かに、神の求めに応えることができない自分に気付かされることがあるかもしれません。ですが、それはそれでよいのだと思います。自分の弱さを素直に認め、神に頼ることは大切なことです。むしろ、神のことばを薄めて、自分があたかも守っているかのように思う方が危険であるとも言えます。なので、何度もこの現実に立ち返りながら、神のことばに生きていくことが求められているのだろうと思います。
したがって、「自分自身を偶像から守りなさい」という最後の一文は、まさに神のことばに留まり続けるようにという『ヨハネの手紙第一』の全体を端的に言い表すものであると言えるのではないかと思います。
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