最近、映画『舟を編む』を観ました。
実は、学生の時に原作を読み、その後映画も観たのですが、10数年ぶりになんとなく再生してみたら、ついつい最後まで観てしまいました。やっぱり何度観ても引き込まれます。原作ももう一度読みたいなと思います。
辞書作りの奥深さを垣間見ると同時に、今回改めて感じたことは、「ことば」の不思議さです。
本作で登場する辞書「大渡海」は、まさに海のように広く、深く、そして暗い世界を渡るためのことばの舟です。ことばがなければ、この世界を生きていくことはできないと言っても過言ではないかもしれません。
そして、不思議なことに「ことば」を操るのは、人間だけです。人間とその他の生き物を区別する一つの違いは、「ことば」にあると言えると思います。人間はことばを使って、コミュニケーションを取ります。
劇中でも聖書の言葉が引用されていました。明言はされていませんでしたが、多分そうだと思います。
「初めに言葉ありき」
これは『ヨハネの福音書』の冒頭の一節です。この箇所は、まさに天地創造の場面、『創世記』を念頭に置きながら書かれたものだと考えられています。
『ヨハネ』はここで「ことば」をイエスになぞらえているわけですけれども、非常に印象的なフレーズだと思います。
初めに「ことば」があったということについて、今回改めて思わされたことは、そこに神の意思があったということではないかということです。神が意志を持って発したことばがこの世界を創造した。つまり、この世界には神の意思が思う存分表されているということです。そして、そのことばとはイエスであるということは、すなわち、神の意思を表すのがまさにイエスであるということです。
神の意思とは何か。それは、一言で言えば、神は造られたもの、つまり被造物を愛しておられるということではないでしょうか。事実、イエスがその生涯で表したものも、神の愛です。
しかし、ことばというのは、時に難しいものです。自分は伝わるだろうと思っていても、相手にとっては理解不能ということもあります。作品の中でも、主人公が恋文を古文で書いてしまい、相手が自分では読めないというくだりがありました。
神の意思、すなわちそのことばもまた、もしかしたら「難しい」という側面があったのでしょうか。聖書を読めば、特に旧約聖書を読めば、民に対する神の愛は一貫していますし、歴然としているように思います。しかし、当の本人たち、つまりイスラエルの民は、どうもそのことばに素直に応答できないでいます。現代の読者からしたら、どうしてそこで神を裏切るのか、という行動を何度も取ります。もちろん、そこには民の不従順、不信仰というものがあるわけですが、同時に神のことばが「難しい」ということも言えるのではないでしょうか。
ただ、難しいからといって、神のことばを理解できないことを神の責任にしたいということではありません。なぜなら、それがどれほど難しくても、神を愛する者は、そのことばを理解するためにはどんな手でも使うということも大切なことだと思うからです。劇中でも、主人公から受け取った古文で書かれた恋文を、板前をしている女性が恥を忍んで大将に読んでもらったという場面がありました(怒ってはいましたが…^^;)。
ことばというのは、とても不思議なもので、話す側と受け取る側のどちらもが歩み寄る努力をしなければ、ちゃんと伝わらないものなのかもしれません。たとえば、どれだけ親が子供のために親身になってお説教をしても、子供に聞く耳がなければ、ただのうるさいことばです。しかし、少しでもそれが自分のためを思ってのことばであると考えることができたら、受け取り方も全く異なってくるのではないかと思います。
辞書を開くこともそれに似ていると思います。わからないことばがあるからこそ辞書を開くわけですから、そこには求める姿勢があります。辞書を開くということの大前提には、そのような相手の意見に耳を傾けるという行為が潜在的に伴っているように思います。
それでも、神のことばを求めるどころか、そのことばを拒絶してしまった民について語っているのがまさに旧約聖書です。そして、そこへ現れるのが、ことばなるイエスです。『ヨハネ』はこのようにも語ります。
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。
ヨハネの福音書1章14節(口語訳聖書)
イエスは神のことばとして「肉体」となられました。それは、神のことばがわからなかった人間が、その目で見て、触れ、理解するためです。イエスが表したことば、それは神の愛です。イエスの生涯は神の愛を表すものです。そして、それを実際に人々は目撃したのです。ことばが具現化、体現された瞬間です。
ことばは語るだけでは伝わらない。実際に、生き方を通して表さなければ、伝わらない。その結果が、まさにイエスによってことばが肉体となったということではないでしょうか。
そのようにイエスによって示された「ことば」を持っている者は、この世界を、広く、深く、暗いこの海のような世界を渡っていくことができるのではないかと思います。どのように生きたらよいのか、何を希望に生きたらよいのか、どこに向かって生きたらよいのか、その「ことば」が示しているのではないでしょうか。
今回『舟を編む』を見て、言葉に対してもっと真剣に向き合いたいなと思いました。言葉の意味を調べる時はほとんどネット頼みだったので、改めて紙の辞書を使ってみたいとも思っています。
それにしても、あれだけ言葉に向き合って辞書を編む方々はすごい!と思いました。