箴言は時に「格言集」と呼ばれ、いわばことわざの詰め合わせのように理解されることがあります。ですが、その全体を俯瞰したときに、単なる格言集ではないことがわかります。
まず全体の構成としては、1-9章が父親の息子に対する語りとなっていて、10章以降がいわゆる格言集となっています。これはいわば「設定」であり、箴言の読者は、父親から語り掛けられている息子に自分を重ねて、箴言のことばから学ぶ必要があると言えます。
そこで序盤の1-9章では、いかに知恵が大切であるのか、知恵に至る道を歩み続けることが教えられます。そして、その実践として、具体的な知恵の格言が10章以降で語られていきます。
以前こんなことを耳にしたことがあります。「箴言は31章あるので、毎日読むのにちょうど良い。」たしかに、便宜的には良いのかもしれませんが、箴言の性質を考えるなら、むしろ逆効果であるように感じます。
というのも、たとえば誰であっても1日でことわざを10個も20個も頭に詰め込むことはありません。ことわざというのは、一聞しただけでは通常理解できず、色々な体験を重ねる中で、その真意を体得していくものであるように思います。同じように、箴言の知恵の言葉も、ただいっぱい詰め込めばそれで良いということではありません。実際、毎日1章ずつ読んだところで、そのほとんど(全部と言ってもいいかもしれませんが)を心の底から理解したと感じることはないと思います。
ですので、全部を網羅する必要はないと思いますが、一つ一つの知恵の言葉を、何度も反芻することが大事になってくるのではないかと思われます。つまり、本当にその知恵の言葉が真実なものであるのか、自分自身の日々の生活の中で、経験し、確認し、その知恵を体得していくものだということです。ことわざばかりを人にひけらかすように話す人は、大抵煙たがられますが、実体験を交えて話すなら、受け手の反応も変わってくるはずです。ですので、単に箴言を読み、知恵の言葉を詰め込むだけでは、本来の目的からは逸脱してしまうように思われます。
それでは、どのように箴言を読むべきでしょうか。やはり、一番は自分自身が「息子」になったつもりで、知恵を学ぶ姿勢が重要だと思います。そして、日々の生活の中で、その言葉の意味を反芻しながら、その知恵を身につけていくことです。ことわざをたくさん蓄えて、人にひけらかしたり、人に忠告するのではなく、自分自身が学ぶということが、根本的に求められているのではないでしょうか。というのも、箴言が教えようとしている知恵は一度手にしたら、一生安泰という類のものではないと思われるからです。つまり、人生の歩みの中で、いつもその知恵を選び取り続けなければならないということです。逆に言えば、その知恵を選ばずに、離れてしまうということもあるということです。
そのことを端的に表しているのは、「知恵の女」と「愚かな女」のたとえです。「息子」は人生の中で「知恵の女」と「愚かな女」から絶えず声をかけられ、どちらを選ぶのかを問われることになります。
知恵の女についてはこのようにあります。
1知恵は自分の家を建て、その七つの柱を立て、
2獣をほふり、酒を混ぜ合わせて、ふるまいを備え、
3はしためをつかわして、町の高い所で呼ばわり言わせた、
4「思慮のない者よ、ここに来れ」と。また、知恵のない者に言う、
5「来て、わたしのパンを食べ、わたしの混ぜ合わせた酒をのみ、
6思慮のないわざを捨てて命を得、悟りの道を歩め」と。
箴言9:1-6(口語訳聖書)
一方、「愚かな女」についてはこのようにあります。
13愚かな女は、騒がしく、みだらで、恥を知らない。
14彼女はその家の戸口に座し、町の高い所にある座にすわり、
15道を急ぐ行き来の人を招いて言う、
16「思慮のない者よ、ここに来れ」と。また知恵のない人に向かってこれに言う、
17「盗んだ水は甘く、ひそかに食べるパンはうまい」と。
18しかしその人は、死の影がそこにあることを知らず、彼女の客は陰府の深みにおることを知らない。
箴言9:13-18(口語訳聖書)
ここで注目されるのは、どちらも「町の高いところ」から呼びかけているということです。
実は、このところには翻訳によって多少の違いが見られます。口語訳では9:3と9:14を「町の高い所」と訳します(新共同訳、聖書協会共同訳「町の高き所」も同様)。ですが、原語には違いがあるようです。ヘブル語では3節は「עַל־גַּ֝פֵּ֗י מְרֹ֣מֵי קָֽרֶת」となっていますが、14節には見られない「גַּ֝פֵּ֗י」(原形は「גַּף」)があります。実はこの単語は、他の箇所には見られないもので、正確な意味は不明のようです。ヘブル語の辞典『HALOT』では、「עַל־גַּ֝פֵּ֗י」で「on top of(?)」となっていました。ですので、曖昧さは残るのですが、新改訳2017では「町の最も高い所」(ちなみに、新改訳第三版では「町の高い所」)、ESVでも「the highest places」と訳しています。
その一方で14節にも多少の違いが見られ、「עַל־כִּ֝סֵּ֗א מְרֹ֣מֵי קָֽרֶת」とあります。こちらは「「גַּ֝פֵּ֗י」の代わりに「כִּ֝סֵּ֗א」が使われています。この言葉には「座」という意味があります。
このようにどちらも町の高い所から呼びかけるのですが、決定的に異なるのは、その辿り着く先です。つまり、いのちへと導くのか、それとも死へと導くのかということです。
ここで先ほどの違いに注目するならば、3節の「町の最も高い所」から呼びかける知恵は、神を表し、その反対に、同じように町の高い所から呼びかける「愚かな女」は、「偶像」を指していると考えられます。というのも、町の高い所というのはシオンの丘に立つ「神殿」を暗示しているからです。まことの神は、ただ「高い」のではなく「最も高い所」から呼びかけます。一方、偶像も「高い所」から呼びかける神々でありますが、偶像というのは、人間が作り出したものであって、自ら立ち上がることができないということも踏まえるならば、14節では「座」という言葉が使われることにも合点がいくように思います。
参考までに、イザヤ書では偶像についてこのように言われています。
5あなたがたは、わたしをだれにたぐい、だれと等しくし、だれにくらべ、かつなぞらえようとするのか。
6彼らは袋からこがねを注ぎ出し、はかりをもって、しろがねをはかり、金細工人を雇って、それを神に造らせ、これにひれ伏して拝む。
7彼らはこれをもたげて肩に載せ、持って行って、その所に置き、そこに立たせる。これはその所から動くことができない。人がこれに呼ばわっても答えることができない。また彼をその悩みから救うことができない。
イザヤ46:5-7
このように、知恵の女と愚かな女がどちらも呼びかけ、誘おうとするのが人生の常です。そして、息子が問われていることは、神の声に聞き従うのか、それとも偶像の声に聞き従うのか、ということです。そしてそれは一度選択したら、一生安泰というものではありません。絶えず、その声を聞き取り、その声の方向へ向かい続けなければならないのです。
ですが、このように聞くと、常に正解を選び取り続けなければならないと、無理難題なようにも思われます。もちろん、箴言もそのことを見通しています。つまり、時に間違った選択をすることもあるということを、箴言は前提にして書かれているのです。
そのことをよく表しているのが、箴言の中で多用される「訓戒、戒め」や「叱責、懲らしめ」という言葉です。人生においては、道を踏み外すこともありますが、それでも訓戒と叱責を受けながら、元の道に戻ることができるようにとも箴言は教えているのです。
戒めを愛する人は知識を愛する、懲らしめを憎む者は愚かである。
箴言12:1(口語訳聖書)
教訓を守る者は命の道にあり、懲らしめを捨てる者は道をふみ迷う。
箴言10:17(口語訳聖書)
このように、震源というのは、読む者を父親から知恵の言葉を聞かされている息子へといざないます。そして、その人生において、神を選び取り続けるようにと励ましているのです。ですが、それは一朝一夕に得られるような、いわゆる「知恵」とは異なります。日々の生活の中で、時に失敗も繰り返しながら、体得していくものであるように思います。そのようにして神の語る知恵のことばに耳を傾け、学び続けることを通して、信仰者として成長していけるのではないでしょうか。