閉じる

イスカリオテのユダは「なぜ」裏切ったのか?

聖書に書いていない?

十二弟子の一人、イスカリオテのユダ。彼の裏切りは、聖書を開いたことがない人にも知られているほど、有名な出来事と言っていいでしょう。

そして、誰もが疑問に思います。なぜユダは裏切ったのか?

ある人は言うかもしれません。

「聖書に書いていないことをあれこれ言っても仕方ない。」

確かに、知り得ないことはあります。しかし、だからといって、考えることが無駄だとは思いません。

それはなぜか。

それは何よりも現代に生きる者が、自分に語りかけられている神の言葉として聖書を読んでいるからです。

聖書にはいくら読んでも「私」は出てきません。しかし、それでも聖書に刻まれた言葉は、今を生きる「私」に語りかけています。神が何を「私」に語りかけているのか、聖書を丹念に読む中で、その声を聞こうとするのが、信仰者と言えるのではないでしょうか。

そう考えるなら、書かれていないことを考えることは決して無駄ではなく、むしろ大切な聖書に対する向き合い方であるように思うのです。

もちろん、だからと言って、根拠のない空想話をするわけではありません。限りなく、事実に基づいて、文脈に沿って、周辺知識を駆使して、考えることが重要だと考えます。

その上で、なぜユダはイエスを裏切ったのか?このことについて考えてみたいと思います。

弟子たちが期待していたこと

イエスに従った「弟子」は十二弟子だけではありませんでした。多くの弟子たちがイエスの宣教活動に帯同していました。

ヨハネの福音書には、弟子のうちの多くの者がイエスの元から去ったことについて言及されています。

60 弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。

66 それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。

ヨハネの福音書6章60節、66節(口語訳聖書)

ここでイエスの元から去った弟子たちの中には、十二弟子は含まれていません。なぜなら、直後にこうあるからです。

67 そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。

ヨハネの福音書6章67節(口語訳聖書)

なぜ多くの弟子たちはイエスの元から去ったのでしょうか。ここでの理由は明確です。それは、自分たちの期待しているような「メシア(キリスト)」ではなかったからです。6章の前半で、人々の誤解が明らかになっています。

14 人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。

15 イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。

ヨハネの福音書6章14-15節(口語訳聖書)

結局のところ、なぜ多くのユダヤ人が弟子としてイエスに従ったのか。それは、イエスがイスラエルをローマ帝国の支配から解放する「救い主」だと考え、期待していたからに他なりません。だからこそ、人々はイエスを担ぎ上げ、「王」にしようとしたのです。しかし、そのような思惑を知ったイエスは、それを拒絶されました。

このことは、「エマオの途上」の出来事に登場する弟子の言動からも明らかです。

13この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、 14このいっさいの出来事について互に語り合っていた。 15語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 16しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。 17イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。 18そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。 19「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、 20祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。 21わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。

ルカの福音書24章13-21節(口語訳聖書)

二人の弟子は、エルサレムからエマオに向かっていました。その理由は、一言で言えば「失望」したからと言えるでしょう。21節で言われているように、二人はイエスこそイスラエルを救う方であると期待していたのです。しかし、あっけなく十字架で処刑されてしまった。それゆえに、エルサレムを去ったのです。

このように、弟子というのはたくさんいましたが、そのうちの多くは、イエスがイスラエルをローマの支配から解放する軍事的な王であると期待していたと考えられます。

十二弟子の裏切り

イエスを裏切ったのは、イスカリオテのユダだけではありません。何を隠そう、あのペテロでさえ、イエスを裏切ったのです。

66ペテロは下で中庭にいたが、大祭司の女中のひとりがきて、 67ペテロが火にあたっているのを見ると、彼を見つめて、「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」と言った。 68するとペテロはそれを打ち消して、「わたしは知らない。あなたの言うことがなんの事か、わからない」と言って、庭口の方に出て行った。 69ところが、先の女中が彼を見て、そばに立っていた人々に、またもや「この人はあの仲間のひとりです」と言いだした。 70ペテロは再びそれを打ち消した。しばらくして、そばに立っていた人たちがまたペテロに言った、「確かにあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから」。 71しかし、彼は、「あなたがたの話しているその人のことは何も知らない」と言い張って、激しく誓いはじめた。 72するとすぐ、にわとりが二度目に鳴いた。ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。

マルコの福音書14章66-72節(口語訳聖書)

他の弟子たちも同様です。イエスが十字架に向かう場面で、誰もがその場にはいませんでした。皆逃げ去ったのです。

弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。

マルコの福音書14章50節(口語訳聖書)

このように考えますと、イエスを裏切ったのは、何もイスカリオテのユダだけではないことがわかります。他の弟子たちも同様にイエスを裏切ったのです。

それでは、なぜ弟子たちは一様にイエスの元から去っていったのでしょうか。やはり、ここでの動機も、先の多くの弟子たちがイエスの元から離れ去った理由に通じているように思います。つまり、イエスが期待していたような「救い主」ではなかったからです。イスラエルのために立ち上がる指導者かと思ってついてきたら、十字架で処刑されてしまったその姿に、人々は失望したのです。それゆえに、イエスが処刑された後の弟子たちは、部屋に鍵をかけ、怯えていました。なぜなら、自分たちがしようとしていたことが明るみでたら、タダでは済まないことをわかっていたからです。

ユダの裏切りの動機は?

以上のことを踏まえた上で、イスカリオテのユダがなぜ裏切ったのか、その動機を考える必要があります。

まず、ユダがイエスを裏切ったことも、他の弟子たちと同じ理由と考えるのが自然であるように思います。つまり、イエスが期待していたような「救い主」ではなかったということです。

しかし、ユダにはある策略がありました。それは、イエスを当局に引き渡すことによって、そのような絶体絶命な場面を作り出すことによって、イエスは武器を取って立ち上がるのではないかという期待です。

事実、当局とイエス及び弟子たちがぶつかる時に、弟子たちは武器を手に取りました。

47そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。 48イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。 49彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。 50しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々は進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。 51すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。 52そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。 53それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。 54しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。 55そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。 56しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。

マタイの福音書26章47-56節(口語訳聖書)

処刑されるために捕まるくらいなら、武器を取って戦うことを、ユダは期待したのではないでしょうか。そして、実際、弟子たちは武器を取ったのです。こんなところでイエスの計画が頓挫してたまるものか、そのような意志が感じられるように思います。しかし、そのような弟子たちに対して、イエスは剣に手をかけることはありませんでした。

ユダはその姿に深く失望しかもしれません。しかし、それ以上に「なぜ」と思ったようにも思います。イエスの行動が全く理解できなかったのではないでしょうか。ユダの末路は悲惨なものでした。

3そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して 4言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。 5そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。

マタイの福音書27章3-5節(口語訳聖書)

ユダはイエスが自分の期待していた救い主のイメージとは異なっていたことに失望しました。ですが、最後の手段として、当局との一悶着を起こすことで、イエスが立ち上がることを期待したわけですが、それも失敗に終わります。しかし、ユダは最終的に「後悔」しています。もしかしたら、武器を手に取らないイエスの姿を見て、イエスがどのような「救い主」であるのか、その一端を垣間見たのかもしれません。しかし、ユダの命はそこで途絶えてしまうのです。

ここでユダはどうするべきだったのか。当然、答えは知り得ません。しかし、他の裏切り者の弟子たちと比べることは意味あることではないでしょうか。

3度主を否んだペテロ

確かにペテロもイエスを裏切りました。その結果、深い失望のうちに故郷に帰り、すっかり弟子になる前の生活に戻っていました。さすがに、いつも命をかけてイエスについていくと熱い思いを語っていたのに、3度も主を知らないと言ってしまったことに対する後悔が、ペテロに重くのしかかっていたことでしょう。

そのように深い挫折を経験したことは、ユダにも通じる点だと思います。しかし、重要なのはその後です。

ペテロは復活の主と出会い、再び立ち上がるのです(ヨハネの福音書21章参照)。自分なんて許されないと思ったかもしれませんが、イエスが3回も「あなたは私を愛するか」と問われるので、その問いに精一杯の思いで応答します。ペテロは「はい!愛します」とは答えることができずに、「あなたはご存知です」と答えるのが精一杯だったのです。しかし、それを良しとされたイエスは、再びペテロに弟子としての使命を与えるのです。

ここにユダとの違いを見ることができるように思います。イエスの赦しを自分で決めつけて、制限してしまったユダ。後悔するだけで終わってしまったユダ。他方、ペテロも深い失望、後悔、挫折の中にいましたが、イエスを信じてもう一度立ち上がった。こんな自分でも主は赦し、再び、弟子としての務めを与えてくださる。そのことをペテロは信じたことに意味があるように思います。

まとめ

イスカリオテのユダはなぜ裏切ったのか。それは、他の多くの弟子たちと同様に、イエスが期待して「救い主」ではなかったからです。

そして、絶体絶命な場面を作り出すことによって、イエスは武器を取って、イスラエルの解放のために立ち上がると考えたのです。

確かに、そのことを期待した他の弟子たちは武器を手に取りました。しかし、イエスはそうはしなかったのです。

その姿を見た、ユダは何を思ったでしょうか。

ユダがイエスを裏切ったことを断罪することは簡単です。しかし、その動機を考えれば考えるほど、ユダなりの考えがあったのではないかと思えてきます。

そして、そのことは現代に生きる信仰者にも、無縁のものではないはずです。イエスのイメージを自分の都合の良いように、期待通りに、歪めていることが、多かれ少なかれ、誰にでもあるのではないかと思うのです。

しかし、イエスは私たちの想像をはるかに超える方なのではないでしょうか。それゆえに、信仰者に期待されることは、とてもチャレンジングで、一筋縄にはいかないものです。しかし、その思いに少しでも応えていくこと、自分で制限することなく、トライしていくことが、重要なのではないかと思わされます。

カテゴリー
URLをコピーしました!