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「心配してはならない」とは?—空の鳥、野の花のように生きる—

近年、ますます未来に対する漠然とした不安を感じさせるようなニュースが続いているように思います。連日のように、現役世代は年金も満足にもらえないとの予測が報道され、暗黙のうちに今のうちから投資や貯蓄をするようにと発破をかけられます。そのような情報に取り囲まれ、心配を抱かない人はいないでしょう。

ところが、聖書にはそのような現実とは真っ向から対立するようなことが教えられています。それが、よく知られている下記の箇所です。

25それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 26空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 27あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 28また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 29しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 30きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 31だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 32これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

マタイの福音書6章25-34節(口語訳聖書)

おそらく、この箇所に力づけられた人もいれば、反対に「そんな無茶苦茶な」と感じた人もおられるのではないかと思います。

これは、一見すると「心配無用」というメッセージに焦点が当てられがちです。空を飛ぶ鳥、野に咲く花。それらは何も心配していないではないか。だから、心配せずに生きていこう。

確かに、そのようなメッセージを「含む」とは思います(31節)。ですが、それだけではないという点が重要だと思われます。なぜなら、心配しなくてよいというメッセージだけを汲み取るなら、それはあまりにも短絡的で、現実離れしたものとなってしまうからです。

まず、大前提として、心配を抱えていない人は、一人もいません。これは、信仰を持ったクリスチャンであっても同様です。人は誰でも思い煩っています。中には、「何も心配事はない」というケースもあるのかもしれませんが、それはずっと続くかと言えば、どうでしょうか。

心配の類、大小は様々ですが、きっと誰もが今日も心のどこかで心配を抱えているということは、一般的に言えるのではないかと思います。それでは、そのような人にとって、この箇所はどのように響くでしょうか。心配しなくてよいと聞いて、すんなり安心できるでしょうか。もしかすると、多くの人にとって、ここでのイエスのことばは絵空事のように聞こえてしまうかもしれません。私たちの人生から「心配」という二文字が消えるはずがない。そのように感じる人は多いのではないでしょうか。

しかし、この箇所は、単に心配するな、心配しなくてもよい、という安直な話ではないという点に注目したいと思います。

イエスは心配する人たちに、二つのイメージを用いて説明しています。

一つ目は空を飛ぶ鳥です。鳥たちは、種を蒔くことも、刈り取ることも、倉に納めることもしません。しかしそれでも、優雅に空を舞っています。それは、天の父によって養われているからだとイエスは言います。鳥たちは、自分が何歳まで生きるだろうかと心配してはいません。あなたがたは、そのような鳥よりも父の目には価値あるものではないかと言われます。

二つ目のイメージは、野に咲く花です。花は、自分で服を作るわけではありませんが、美しい。しかも、その美しさは、あの栄華を極めたソロモンさえも凌駕するものだと言われます。たとえ明日、炉に投げ込まれる花であったとしても、それほどまでに神は装ってくださるのなら、花よりも大切な存在であるあなたがたによくしてくださらないはずがないとイエスは言います。

そして、次のことばが続きます。

ああ、信仰の薄い者たちよ。 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 

ここでイエスは心配する人のことを「信仰の薄い者」と呼びます。私たちは誰もが、大なり小なり心配性ですので、信仰が薄いと言われてショックを受けるかもしれません。しかし、ここで重要なのは、信仰がないとは言われていないということです。信仰がないのではなくて、信仰が薄いのです。確かに、私たちは、信仰が薄いという現実は素直に受け入れなければならないだろうと思います。誰であっても、心配事で心が覆われて、何も見えなくなってしまうということがどうしてもあるわけです。

しかし、その上で、注目したいことは、私たちが心配していることを父なる神は全てご存じであるということです。私たちが必要とするもの、食べ物や衣服、が私たちに必要であることを他ならぬ父なる神は知っておられるのです。

そして、ここでのイエスのことばの中で、最も大切なのは、まさにこのところだと思われます。つまり、私たちが心配することはある意味仕方のないことですが、その時に、父なる神が私たちのことを心配していないと思ってしまうこと、そのような過度な心配に支配された状態をイエスは忠告されているということです。

イエスはここで心配をしてはいけないと言っているわけではありません。「食べるもの、着るもの、そんなこと考えてはいけないよ」と言っているわけではありません。それらはすべての人にとって必要なものです。

その上で考えるべきことは、心配事をしているときに、果たして、父なる神が誰よりも私のことを心配してくださっているということが頭の片隅にでもあったのか、ということだと思います。その点が問われていると言えるでしょう。心配するばかりで、その時、神が自分のことを心配しておられるということが抜け落ちていることがあります。そこが問題だと、イエスは言われているように思われます。心配のない人生はありません。誰もがいつも何かを心配しています。しかしその時に問われていることは、私たちの心配を、父なる神がご存じで、心配しておられるということ、そのことを私たちはいつも覚えているの、ということです。

それゆえに、イエスはこう言われます。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 」ここでイエスは「神の国」と「神の義」を思い起こさせています。あなたがたは、今、神の国に生かされているではないか。つまり、神と共に今生きているのではないかと言うわけです。そうであるならば、ますます神の国に、生かされることを求めなさいと言われます。また、神の義というのは、まさに神との契約に生きているということです。それは言い換えるなら、神の子とされているという約束です。そのような神の義を求めなさいとイエスは教えておられます。父なる神は、私たちの心配をご存じで、必要なものを与えてくださるお方です。そのことを忘れないようにと、教えておられるのです。

誰であっても、その人生において、心配事はつきません。仮に心配事が一つなくなったとしても、またすぐに次の心配事がやってきます。人生はその繰り返しであるということは、誰もが経験していることです。そのような心配事が尽きない人生の中で、その心配に押しつぶされて、神が見えなくなっていないだろうか、ということを考えることは大切なことであるように思います。

これらを踏まえた上で、34節を読むとどうなるでしょうか。「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」心配というのは、どれだけ心配しようと、明日もやってきます。明日どんな心配があるだろうか、明日はどんな苦労があるだろうかと、考えがちですけれども、明日のことまでは心配しなくてもよいとイエスは言われます。そこまで心配する時、私たちは心配に押し潰され、もはや神のことは見えなくなってしまうのです。

誰であっても、人は毎日心配するものです。しかしその時に、神の国と神の義を求めることを思い出すこと。それは要するに、神と共に生きていること、生かされていることを思い出すこと。その神は、義なる方で、いつも変わらぬ約束を持って導いてくださるお方であること。たしかに、心配事はあります。ここで教えられていることは、そのような思いわずらいをゼロにすることではありません。そうではなく、過度な心配は、神を見えなくしてしまうということです。心配することも必要なことです。しかし、その心配に押し潰されないで、まずは父なる神が心配してくださっていることに目を留めよ、ということがここで言われていることであるように思います。そのことを知るだけで、きっと鳥のように自由に、花のように美しく、日々を生きていくことができるようになるのではないかと、そのように思わされます。

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