聖書には、いわゆる「三位一体」と言われる、父なる神、子なるイエス、聖なる御霊について記されています。
このうち、父なる神と子なるイエスは、比較的理解することもイメージすることも容易です。それに対して、聖霊の働きは、他の二つに比べて実感しづらい、わかりにくい感があることは否めません。事実、「聖霊」というのは、ギリシア語で「πνεῦμα(プネウマ)」といい、「息」や「風」という意味があります。まさに、聖霊はつかみどころがありません。
それでは、そのようなつかみどころのない聖霊を「実感」することはできるのでしょうか。
今ではだいぶ収まったように思われますが、一昔前には、聖霊についての解釈の相違により、大なり小なりの分裂騒動が教会にありました。それは主に、信仰者のうちに聖霊が降っているか否かという問いに起因するものです。しかし、本当に聖霊が降っているのかどうか、どうやったら証明できるのでしょうか。この一連の出来事は、今でも、この類の話に拒否反応を示される方もおられるほどに、決して小さくはない傷跡を残したと思います。
それでは、聖霊についての理解は個人に任せるとして、その話題には触れるべきではないのかと言えば、そうではないでしょう。なぜなら、聖書は聖霊を重要なテーマとして語っているからです。
そこで、やはり避けては通れないのが、自分に聖霊が注がれているのか、という問いです。実際に、自分は本当に聖霊を受けているのだろうかと疑問に思われている方もおられるでしょう。ですので、この問いは大切なものだと思います。ただ、ここで過去と同じ過ちを繰り返さないことは肝に命じなければならないでしょう。つまり、次のことをはっきりとさせていなければなりません。それはすなわち、聖霊を受けているかどうかを他人がジャッジしないということです。
そもそも聖霊というのは、その人の信仰を量ったり、自分の信仰を誇示するためのものではありません。聖霊というのは、ひとえに神の子とされていることの証しです。
それゆえに、自分自身に、「自分には聖霊が降っているか」と自問することは、それは健全な信仰者の姿勢として、大切だと思いますが、他人に対して、どうこう言うのは問題があるように思います。なぜなら、神の子であるということは、父なる神と自分自身の関係の中で見出されるものであるからです。
そこで、聖霊と神の子の関係について重要と思われる箇所を参照しましょう。それは、イエスのバプテスマの出来事です。この記事は、共観福音書全てに記されていることを考えるなら、非常に重要な出来事であったことは想像に難くありません(マタイ3:13-17//マルコ1:9-11//ルカ3:21-22)。ここでは、『マルコ』の記事を引用します。
9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
マルコによる福音書1章9-11節(口語訳聖書)
10 そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。
11 すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
ここでイエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けます。そして、その直後、天からの声を聞きます。それは、御父の子であるというものでした。
ここで興味深いのは、この天からの声を誰が聞いたのか、ということです。おそらく、その声は御子イエスのみに聞こえたと考えるのが自然ではないでしょうか。
なぜそう言えるのか。まず、ここで少なくともイエスご自身は、その声を御父のものと認識しています。しかし、もし周りの人たちにもその声が聞こえていて、その声を神と認識していたならば、多くの人がイエスこそまことのキリストと認識しても良さそうなものですが、そうはならず、多くの人はイエスが御子であることを理解できませんでした。
実は、この記事は『ヨハネの福音書』にも記されていますが、共観福音書と異なる点は、バプテスマのヨハネが天の声を聞いているということです。しかし、それは御父が御子イエスに語りかけた「あなたはわたしの愛する子」ではありませんでした。
32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
ヨハネによる福音書1章32-34節(口語訳聖書)
33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。
このことを踏まえるならば、やはり、「あなたはわたしの愛する子」という呼びかけは、御父と御子の極めて親密な関係の中でなされたものであると考えられるように思います。
これらのことから、聖霊が降るということは、神の子とされる(神の子と認識する)ことを意味していると解釈できます。そして、このことは、キリスト者一人一人にも当てはまることだと言えるでしょう。つまり、聖霊が降る信仰者は、紛れもなく神の子とされているということです。
その上で、今回の本題です。それは、ではそのことを実感できるのか、ということです。
ここで注目したいのは、先の箇所で御子イエスが御父から聞いた言葉です。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」
このことから、神の子とされるということは、言い換えれば、神に愛されていることだと言えるのではないかと思います。
聖霊が降るということは、神の子とされるということであり、それはすなわち、神に愛されているということ。このように考えるなら、どうでしょうか。自分自身が神に愛されているという実感は持ち得るのではないでしょうか。確かに、聖霊という言葉には「風」という意味があるように、目には見えず、手で触れることもできません。そして、それは「愛」も同様です。愛は目には見えず、手で触れることもできません。しかし、感じることができます。それは、目には見えない風が肌に吹き付けるとわかるように、目には見えない愛を受けた時にも何か温かいものを感じるということがあるように思います。
しかし、もちろん、聖霊を受けるということが、このような精神的な次元であると言いたいわけではありません。それには確かな実態があります。それでは、その実態とは何でしょうか。どのように目には見えない聖霊が表されるのでしょうか。
その鍵は、まさに御子イエスにあると言えます。つまり、御子イエスが、目では見えない御父の愛をその生き方を通して体現された、ということです。そのことを『ヨハネ』はこう表現します。
14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
ヨハネによる福音書1章14節(口語訳聖書)
御子イエスの生き様は、御父の教えを体現したものです。そして、その教えとは、究極的には、神と人を愛するということでなくて何でしょう。イエスと関わりを持った人たちは、確かにその愛を受けました。愛の実態を見たのです。なぜなら、イエスは人の間に住まれたからです(「宿る」の直訳は、「幕屋を張る」です)。
そして、その愛は、時代を超えて、連綿と続いています。また、そのようなイエスの愛に基づいた生き方を証ししているのが聖書です。それゆえに、現代人にも、その実態のある愛を知ることができ、また先人から脈々と受け継がれてきた愛の実態を目にすることもできると言えるのではないかと思います。
ここまで見てきましたように、聖霊が降るということは、神の子とされることであり、神の愛を受けることです。そして、その愛を実感しているなら、紛れもなく、神の子とされ、聖霊を受けていると言えるのではないかと思います。
しかし、そこには程度の差はあると思います。時には、自分は本当に神に愛されているのかと疑問に感じることもあると思います。ただ、そこで重要なことは、神に愛されているか否かは、人間側に基準があるわけではないということです。大事なことは、自分がどう思ったとしても、神がどう思われているのか、ということです。そして、神の愛は変わることがありません。自分がどれだけ神に愛されていないと思ったとしても、それが神が愛していないことを意味するわけではありません。
このように考えるなら、聖霊が降っているか否かは、人間側でジャッジできるものではないことは明らかだと思います。神との個人的な関係の中で、見出し、見出されていくものだと言えます。
ですので、最初の問いに戻るなら、神に愛されていると思うなら、それは聖霊を実感していることに他なりません。また、仮にそのように感じられなくても、それがすなわち聖霊が降っていないことを意味するわけではありません。
これは余談ですが、キリスト教教育の土台には、神に愛されている自己を確立するということがあるそうです。神に愛されている自分という揺らぐことのないアイデンティティーは、生きる上で重要な軸となります。キリスト教教育に関する本はたくさんありますが、読みやすいものとしては、キリスト教教育の第一人者である湊晶子先生の記念碑的著書をお勧めします。
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