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働くことも休むこともどちらもすごいこと〜安息日との関係から考える〜

「働いて×5」

先日、2025年の流行語大賞の発表があり、高市首相の「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」が選ばれました。

この発言について、ニュースなどを見ていると、世間の反応は別れているようです。大切だと思う人もいれば、言い過ぎだと思う人もいます。皆さんはどう思われたでしょうか。

個人的には、そこまで働くことができる人は、ただただ感心します。おそらく、自分の思考としても似ている傾向があるように思います。つまり、たくさん働くことが一つの美学になっているのです。

ただ、その一方で、休むことも働くことと同じくらいにすごいことだと、今では実感するに至りました。

これは、多少の偏見があるのかもしれませんが、働くということは、働くことによって何かを生み出す行為だと言えます。働くことによって、価値を創出しています。それは、必然的に達成感や幸福感、そういったものをもたらします。しかし、時に陥りやすいのは、働くことこそが人生の土台であると考えることです。

人は一日中働いているわけではありません。休息も必要です。それでは、休んでいる時には、自分は何も生み出していないから自分には価値がないのか、と言えば、そういうわけではないでしょう。働いていようが、休んでいようが、自分自身には価値があると考えることは素敵なことではないでしょうか。そしてまさに、そのことを聖書は教えているように思います。

安息日規定

聖書は、働くことを禁じてはいませんし、全体的にはむしろ働くことを推奨していると言えます。ただ同時に、働くことと同じくらいに休むことも重視しています。それが、安息日の教えです。

有名なモーセの十戒の一つにこのような規定があります。

8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。 
9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。 
10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。 
11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

出エジプト記20章8-11節(口語訳聖書)

これは、創造主なる神が7日目に休まれたので、それにちなんでイスラエルの民に休むことを教えている規定です。この規定は、その後、歴史の中で偏った解釈をされていくようになります。つまり、ただ仕事をしなければよい、むしろ何もしてはならないという、表面的な理解です。その結果、今となっては、安息日にしてはならないことのリストがずらりと並んでいます。

しかし、本来の安息日というのはそのようなものなのでしょうか。あれをしてはいけない、これをしてはいけない、という禁止事項が列挙された日なのでしょうか。

先の「十戒」では、安息日の規定が神の創造の七日間に基づくことがわかります。その際、神は六日間の創造の後、疲れたから休まれたわけではありません。創造のわざが完成したので、それを楽しむために、働きの手を止められたのです。

したがって、安息日というのは、ただ休めばよいというものでもなければ、休んでいない人を見下すためのものでもありません。その本質は、神の造られたこの世界を楽しむということにあります。そして、もっと言えば、そのような世界を共に楽しむことへと招くために安息日の規定があると言えます。

休むことが難しい理由

このように、本来、安息日の規定というのは、この世界を楽しむことを目的としたものであると言えるわけですが、しかし、実際はといえば、休むことが難しい現実があります。それはなぜでしょうか。

そもそも、多くの場合、働くことによって自分自身の価値を見出そうとしている現実があるように思われます。何かを生み出していなければ、自分には価値がないという、ある種の強迫観念がこの社会を覆っています。その中にあって、誰もが、絶えず何かをしていなければ、誰からも認められないと思ってしまいます。

ここに、休むことが難しい理由があるのではないでしょうか。何もしていないことは、価値がないこととみなされてしまう(あるいは、そう思ってしまう)ということがあるように思います。

そこで問われてくるのが、神との信頼関係です。

聖書が一貫して語っていることは、誰もが神によって愛されている存在だということです。しかし、そのことを信じることができなくなる、その信頼が揺らいでしまうことがあります。その中で、自分が神に愛されていることを信頼することが重要になってくるのではないかと思います。

そのように考えると、休むということが、働くことと同じくらいに難しいことであるように、個人的には思います。働くことは自分の価値を見出しやすいですが、休むことに自分の価値を見出すことは難しく感じられるからです。しかし、だからこそ、人生の土台、自分自身の価値の土台を、そのような「働き(何かを生み出すこと)」から転換する必要があります。それはすなわち、存在そのものに価値があることを知るということです。

安息日をどのように過ごすのか

現代において、安息日規定というのは、いわゆる律法として守られているものではありません。新約聖書の時代、人々が安息日として休むようになったのは、主イエスが日曜日の朝に復活されたことに起因します。本来、律法で定められた安息日は週の七日目であり、それはすなわち土曜日です。しかし、人々は週の初めの日曜日を安息日として、主を礼拝するために集まるようになりました。

ですので、厳密に言えば、現代のクリスチャンは、律法を守るために安息日に礼拝をしているわけではありません。むしろ、礼拝する理由は、主の復活を喜ぶためという自発的な思いにあると言えます。

ただ、神の定めた律法には、神のご自身の価値観が反映されていると考えるならば、安息日規定に込められている精神を、現代に生きるクリスチャンが知ること、実践することには大きな意味があるだろうと思います。

それでは、安息日規定に込められている精神とは何でしょうか。それはここまで見てきましたように、神によって造られたこの世界を楽しむことや神を信頼すること、自分の価値は自分の功績によって決まるのではなく、ただ存在そのものが尊いものである、といったことが挙げられるでしょう。

そのようなことを考えるなら、安息日というのは、してはならない禁止リストが並んだ日ではないことは明らかではないでしょうか。むしろ、積極的に楽しみ、喜ぶ日であると言えるのではないでしょうか。

ケン・シゲマツ氏は、安息日の過ごし方の一環として、レクリエーションを勧めておられます。

 私はウォーター・スポーツも好きです。水泳、セーリングやカヤックに乗ることは、私にとって祈りの体験です。安息日に美術や音楽、読書を満喫する人もいるでしょう。あなたにとって、どのようなものがいのちを与えますか。あなたがいのちにあふれ、神の臨在を感じる趣味を選んでください。たとえそれが、一人で行うものであっても、それを行った後、より人に仕えられるようになります。
 安息日のルールは、自由に神を楽しみ、すべてにおいて神をあがめることです。それは、普段とは違った食事をする日であり、昼寝をする日、愛する人と過ごす日、自然やスポーツ、音楽を楽しむ日、礼拝し、神といのちの賜物を共に祝う日です。安息日はすべきことを捨て、神にあなたを再び創造(re-create)する神を認めるものです。

ケン・シゲマツ、重松早基子訳、『忙しい人を支える 賢者の生活リズム』(いのちのことば社、2015年)、58頁

このように、休む、休息を取るということは、「怠けている」ことを意味しません。一見すると、そのように思われる傾向があるわけですが、しかし、休むということは、自分で自分の価値を維持することをやめるということであり、それはすなわち神によって価値が与えられていることを認めるということです。自分が何も生み出していない時でも、神によって価値あるものと、創造されたものであることを受け入れること。そのことを安息日に確認し、実感することができたら、なんと素晴らしい休日となるでしょうか。

真の休息

ここまで見てきましたように、休むということは、神を信頼することと密接な関係があると言えます。その中で、神によって造られたこの世界を味わい、楽しむことも大切な目的となります。

その上で、ケン・シゲマツ氏はこう指摘します。

 趣味やレクリエーションは大切ですが、楽しむだけでは真に深い休息は得られません。「プールサイドに横たわって十五秒もしないうちに、すべきことをいろいろと考えてしまう」と言う人もいます。私たちがくつろいでいる時に限って、何かしなければいけない気持ちになるものです。心の中で何もしていない自分を責める声が聞こえてきます。
 私たちは寝ても、ノンレム睡眠(深い眠り)を経験していないと、深く休息したことにはならないといいます。つまり、ただ眠ればいいというわけではなく、睡眠の質が重要です。深い休息のためには、仕事から離れるだけではなく「内面的な」休息が必要です。
 私たちの生活も同じです。ただ休息が必要なだけではなく、質の高い休息が求められます。真の休息が得られない理由の一つは、自分の価値を人に認めてもらおうとするからです。自分がやっていること、持っているものによって自分は評価されるという心の中のささやきから解放されなければ、完全なる休息を経験することはできません。[中略]
 私たちは何かをすることによって存在価値を証明する必要があると感じてしまいます。学校でも職場でも、自分の価値を証明するには他の人より秀でなければと感じてしまいます。自分の価値を証明してくれる何か、あるいは誰かが必要だ、と。

ケン・シゲマツ、重松早基子訳、『忙しい人を支える 賢者の生活リズム』(いのちのことば社、2015年)、60-62頁

ここに、安息日において礼拝が重要な要素になる理由があります。つまり、この世の価値観に絶えず晒されている者が、神の前で、神の価値観に焦点を合わせるのが「礼拝」であり、真の休息となります。そのことを、シゲマツ氏はこう述べます。

 私たちは集まって祈り、賛美をささげ、聖書の話に耳を傾けて創造主なる神の御臨在に浸る時、安息日にもっとも敬意を表すことができます。生活の焦点を自分にではなく、イエスに合わせ、イエスの招きの声に耳を傾け、応答する時に真の安息日を経験します(マタイ11:28–29)。
 礼拝は安息日に欠かすことができないものであり、生活のルールの中核です。神に心を向けることによって、アイデンティティーの中心が私たちのすることや持っているもの、あるいは人がどう思うかではなく、神から愛されているという事実にあることに気がつきます。礼拝は絶え間なく自分を責め続ける内なる声を静め、神の愛を新たに経験させてくれます。そのことが理解できると、からだと魂に真の休息が訪れます。ですから、休息といのちを与えてくれる様々な活動の中にあっても、礼拝こそが、安息日の中心となるのです。

ケン・シゲマツ、重松早基子訳、『忙しい人を支える 賢者の生活リズム』(いのちのことば社、2015年)、62-63頁

働いて働いて働いて働いて働いて、休んで

全然キャッチーではなくなってしまいますが、あえて提案するならば、「働いて×5」の後に、「休んで」があればいいなぁと個人的には思います。

働くことは否定されるものではなく、むしろ人生を豊かにする大切な要素です。ただ、当然のことながら、世の中には、様々な事情というものがあり、一概に言えることではありません。また、その一方で、「休む」ことに対する誤解や偏見があることも事実です。休んでいる人はどこか怠けているように見える。しかし、本当の意味で休むということは、大変なことであり、時には難しいことでもあります。なぜなら、何も生み出していない自分自身を受け入れることだからです。そのような者さえも、神は愛しておられるというその価値観を認めるということだからです。

もしも自分が働きすぎているなぁと思ったら、少し休んでみるのもいいかもしれません。もしも自分が休みすぎているなぁと思ったら、少し働いてみるのもいいかもしれません。働くことも、休むことも、どちらもすごいことであり、また大変なことです。そのような認識を持つことができたら、より生きやすい社会になるのではないでしょうか。

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