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「福音派」という言葉の独り歩き―日本とアメリカの違い—

2025年に出版されたキリスト教関連の書籍の中で、最も世間の注目を集めた一冊は、中公新書の『福音派』(加藤喜之著)ではないでしょうか。

トランプ大統領の第一次政権時から日本国内でも「福音派」にスポットが当てられるようになりましたが、第二次政権の発足によってその名はさらに一般化しました。今回の出版により、世間における「福音派」のイメージ――すなわち「右派」「保守」「聖書への原理主義的アプローチ」といった輪郭が、ほぼ定着したと言ってもよいかもしれません。

もちろん、本書を丁寧に読めば、福音派の中にも多様な政治的立場(右派も左派も)が存在し、決して一括りにはできないことが詳しく言及されています。しかし、断片的な情報が拡散されやすい現代において、広く浸透しているイメージは、やはり「字義通りの解釈に固執する過激な人々」といった、やや偏ったものになりがちです。

ここで注意すべきは、現在注目されているのは「アメリカの」福音派という極めて固有の文脈における事象であるにもかかわらず、日本の福音派までもが「全く同じ性質のもの」として理解されかねない現状があることです。

実際には、アメリカと日本の福音派の実態は大きく異なります。 近年のアメリカにおける宗教保守の台頭は、政治勢力が「福音派」という巨大な票田をナショナリズムと結びつけて利用している側面が多分にあります。対して日本では、キリスト教が政治に与える影響は微々たるものであり、構造そのものが違います。

また、日本の福音派は、伝統的に政治と一定の距離を置いてきました。そこには、第二次世界大戦中に教会が国家に翻弄され、戦争協力へと傾斜してしまった歴史への深い反省があります。「教会で政治を語ることはタブー」という暗黙の了解は、そうした痛切な過去と密接に関係しているのです。

もちろん、近年では「沈黙しすぎることへの反省」から、積極的に発信する個人や教会も増えており、一律にタブー視することが正解とは言えません。しかし、成立過程も社会的立場も異なる日米の「福音派」を、同じ枕詞で語ることには慎重であるべきでしょう。

今や「福音派」という言葉には、潜在的に「アメリカの政治的勢力」というニュアンスが強く付着してしまいました。このままこの名称を使い続けることは、意図しない誤解を招くリスクも孕んでいると言わざるを得ません。教団・教派というラベルは、本来自分の立場を説明するための便利なツールですが、それがかえって本質を覆い隠してしまうなら、その呼び名に固執するメリットが薄れていってしまう、ということもなくはないように思われます。

先日、加藤先生が日本記者クラブで行われた講演(YouTubeで視聴可能です)でも、アメリカの「政治神学」の危うさが語られていました。世間がこれほど「福音派」に注目するのは、あくまでアメリカ政治との密接な関わりゆえであり、それは多くの日本のクリスチャンが抱く「信仰のあり方」とは少しズレがあるように感じます。

では、クリスチャンは社会や政治と無縁であるべきでしょうか。 リチャード・ボウカム氏の著書『聖書と政治—社会で福音をどう読むか—』が示す通り、イエス・キリストの生涯は、当時の宗教的・社会的枠組みを揺るがす極めて「政治的」な意味を持つものでした。しかし、特筆すべきは、イエスが決して世俗の権力を奪取しようとはしなかった点です。その活動は、一人ひとりに働きかける、いわば「草の根的」なものだったと言えます

クリスチャンは、社会の課題に対して無関心でいるべきではないと思いますが、世俗の権力と密接に結びつくことには細心の注意を払う必要があるように思います。たとえ表面的な情報だけが一人歩きし、偏ったイメージが定着しようとも、「正しく認識されること」を追い求めていくことも必要と言えるかもしれません。今回、たまたま「福音派」というラベルに大きなスポットが当てられていますが、そのようなケースは他にもたくさんあるように思います。

そのように、十把一絡げでラベリングされ、さらにはそれが誤っていたり、偏っていたりするときに、そのイメージとの違いを説明し、正しく認識してもらう取り組みは大事な姿勢であるように思います。教会が、そして一人ひとりのクリスチャンが、自分たちの言葉で誠実に発信を続けていくこと。その地道な歩みこそが、このような時代だからこそ、求められているのではないでしょうか。


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