明けましておめでとうございます。 2026年はどのような一年になるでしょうか。期待と不安、様々な感情を抱きつつも、主に信頼して歩む一年となることを願うばかりです。
新年を迎え、目標を立てた方も多くおられるのではないでしょうか。 しかし、その目標がなかなか続かない……というのは、誰もが経験することかもしれません。ともすると、達成できなかった自分を責めたり、失望したりすることもあるでしょう。
そのような思考の背景には、「成果によって自分の価値が決まる」という潜在意識が隠れているように思います。しかし、聖書が語っていることは、むしろその反対です。
9b あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
10 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
コロサイ人への手紙3章9b-10節(口語訳聖書)
ここで注目したいのは、「新しき人を着た」と完了形で語られている点です。私たちは立派な行いをした結果として「新しい人」になるのではありません。キリストを信じ、新しい命に生きる一歩を踏み出したその時から、私たちはすでに「新しい人」を着せられているのです。
このことは、同3章1節でも言及されています。
1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
コロサイ人への手紙3章1節(口語訳聖書)
つまり、クリスチャンであるということは、すでに「新しい人を着ている」ということです。何か特別なことを成し遂げたから認められるのではなく、無条件に、神様の手によって新しい服を着せられているのです。
時にクリスチャンは、規律にがんじがらめになった不自由な人だと誤解されることがあります。しかし、聖書が語る福音の本質は、不自由ではなく「自由」です。 例えば、コロサイ書3章の続きにはこうあります。
12 だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。
13 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
コロサイ人への手紙3章12-13節(口語訳聖書)
これは一見、守らなければならない「ルール」や「重荷」のように見えるかもしれません。しかし、そうではありません。これらは「新しい人」にふさわしい振る舞いとは何かを示すものです。これらを実践したら新しい人になれるのではなく、「すでに新しい人にされているのだから、これらがあなたに一番似合いますよ」という招きだと言えます。
これは「身分」の問題だと言い換えることができます。 エペソ人への手紙5章1節にはこうあります。
1 こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
エペソ人への手紙5章1節(口語訳聖書)
イエス様を信じる信仰によって、私たちの身分は「神の子ども」へと変えられました。 例えるなら、それまで「しもべ」だった者の前に王様が現れ、「今日からお前は私の子だ」と宣言したようなものです。その瞬間、彼の身分は「王子」となり、それまで着ていたボロボロの服は似合わなくなります。王子としての新しい服を着ることは、義務ではなく、新しい身分に伴う自然な喜びです。
神様に愛されている子ども(=新しい人)として、それにふさわしい服、自分に一番似合う服を着ること。それは決して無理なことではなく、本来の自分に戻っていくような、自然なプロセスと言えるでしょう。
そう考えると、先述の聖書が勧める「あわれみ」や「寛容」といったリストが、私たちを縛る規律ではなく、神様からの優しいアドバイスのように聞こえてこないでしょうか。それは束縛ではなく、「あなたには、もっと似合う素敵な服(生き方)がありますよ。こっちの方がぴったりサイズですよ」という、愛に満ちた招きなのです。
新年の目標を立てることも、これに似ています。 「目標を達成したから自分には価値がある」と考えるのではなく、「すでに新しい人にされているのだから、その自分にふさわしい歩みを楽しもう」と前向きに捉えてみる。そこにあるのは、自分を縛る重荷ではなく、自由です。
目標とは、自分を縛るためのものではなく、人生をもっと楽しむためのもの。 それはさながら、毎朝のコーディネートを考えるワクワクする時間です。「新しい人として、今の自分に一番ふさわしい装いは何だろう?」と考えるのです。
新しい一年、目標が重荷になるのではなく、自分に似合う服を選び取りながら、軽やかに、楽しみながら進む毎日となりますように。
