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神様は「お腹が空くこと」を知っている ─ 日ごとの糧を祈る理由

1. 「あなた」から「私たち」へ ── 祈りの地平が降りてくる場所

私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。」(マタイ6:11)

主の祈りの構成は、前半の三つの祈りが「神の栄光」という垂直の視点を持つのに対し、第四の祈りから、地を這うような私たちの「生」へと視点が切り替わります。主体が「あなた」から「私たち」へ、その関心は「霊」から「肉」へと降りてくるのです。

しかし、これは「聖なる対話から俗的な要求へ」という後退ではありません。むしろ、神が人間の「肉体」という重みを、どれほど聖なるものとして重んじておられるかを象徴する、ダイナミックな転換点なのです。

2. ルイスが暴く「偽りの霊性」という罠

C.S.ルイスはその著書『悪魔の手紙』において、実に皮肉な形で「過度な」霊性の危うさを指摘しています。

悪魔であるワームウッドの叔父であるスクルーテイプは、若者を誘惑する手段として「母親の祈り」をきわめて精神的なものへすり替えるよう命じます。彼女の魂の救いを祈らせる一方で、彼女の関節を蝕む「リューマチの痛み」という現実的な苦痛には無関心でいさせるのです。

むろん、きみとしてもやつが母親のために祈るのを阻止するわけにはいかない。しかしその祈りをわれわれなりに無害にする手段はあるのだよ。すなわち、その祈りをきわめて『精神的な』ものとして、やつにいつも母親の魂の状態を気にかけるようにさせ、その一方、彼女のリューマチの痛みといった実際的な問題にはまるで無関心なように仕向けることだ。

C.S.ルイス、中村妙子訳『悪魔の手紙』(平凡社、2006年)、26-27頁

要するに、神は霊的なことにしか力が及ばず、肉体に対しては全く無力であると思わせる悪魔の策略だということです。しかし、肉体的な痛みを無視した「魂の救い」など、それは空虚な観念に過ぎません。私たちが肉体を持つ以上、パンを求める祈りは、私たちが人間であることを認める「誠実さ」そのものなのです。

3. 「パンだけで生きるのではない」という逆説

イエスが荒野で引用された「人はパンだけで生きるのではない」(マタイ4:4)という申命記の言葉。これを「パンを軽視する言葉」と受け取るのは誤読でしょう。

2 あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。 
3 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。

申命記8章2-3節(口語訳聖書)

申命記の文脈が語るのは、飢えという極限状態において与えられた「マナ」の記憶です。パンは生きるために絶対的に必要である。しかし、その「必要不可欠なパン」を日々生み出し、私たちの手に握らせてくださるのは誰か ── その源泉を忘れてはならない、という逆説です。 パンの重要性を認めれば認めるほど、それを与える「主の言葉」への信頼は深まっていきます。

4. 燃え尽きたエリヤが受け取った「沈黙の福音」

預言者エリヤが戦いの果てに「主よ、もう十分です」と死を願ったとき、神様は彼に神学的なメッセージ(聖書のことば)も、未来の展望も語られませんでした。

4 自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。 
5 彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、「起きて食べなさい」と言ったので、 
6 起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。 
7 主の使は再びきて、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。 
8 彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。

列王記上19章4-8節(口語訳聖書)

そこにあったのは、一人の御使いと、焼け石で焼いたパン菓子、そして水の入った壺でした。神様は、絶望の淵にいる人間にとって「食べ、そして眠る」という生物的な営みが、時にどのような説教よりも尊い「回復の道」であることをご存知なのです。 このとき、エリヤに力を与えたのは形而上学的な真理ではなく、焼きたてのパンの温かさでした。

5. 「豊かさ」という名の忘却の中で

内田和彦氏が指摘するように、飽食の時代に生きる私たちにとって、この「日ごとの糧」の祈りは、一種の「謙虚な規律」となります。

主イエスの時代の庶民は、今の日本に住む私たちと比べれば、はるかに貧しい生活をしていた。蓄えることなどできず、その日その日を生きていくのがやっとだった。その日の賃金で食べ物を買う人々にとって、『私たちの日ごとの糧を今日もお与えください』という祈りは切実だった。今日でも世界中で実に多くの人々が、極貧の生活をしている。主が教えられた祈りは、そういう人々のためで、『豊かな』日本に生きる私たちはこの祈りを祈る必要がないのか。そうではない。物質的に恵まれた人であれば、なおのこと『我らの日用の糧を、きょうも与えたまえ』と祈らなければならない。そう祈ることにより、三度の食事が決して当たり前でないことを思い起こす。聖書の時代の日雇い労働者ばかりでなく、貧しい国の人々ばかりでなく、比較的恵まれた社会に生きる私たちも、神の御手から糧をいただいている事実を、この祈りとともに思い起こすのである。

内田和彦「主の祈り」、聖書神学舎教師会編『祈りの諸相~聖書に学ぶ~』(いのちのことば社、2019年)、196-197頁

蓄えがあり、飢えを知らない私たちが「今日もお与えください」と祈るとき、私たちは三度の食事が当然の権利ではなく、神の掌からこぼれ落ちた「恵み」であることを思い起こします。日々の生活の中で、常に自分の存在自体が神の御手の中にあることを自覚することは、魂にとってこれ以上ない有益な訓練だと言えるでしょう。

結び ── 祈りは食卓から始まる

主の祈りは、天から始まり、私たちの食卓へと視点が移行します。 私たちが今日、当たり前のように口にするパン。その一切れに、天の父の配慮と、私たちが生かされているという神秘が凝縮されていると言えます。

「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」

この祈りを口にするとき、私たちは自分の弱さを認め、同時に、その弱さを抱えた私たちを愛してやまない方の温かさに触れるのです。

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