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『敵を愛し、迫害する者のための祈りなさい』はどこから来たのか ─ 詩篇83篇に見られる祈りの源泉

1. 断絶か、連続か

しばしば、イエスの教えは旧約聖書の教えを「深化」させたもの、あるいは「凌駕」するものとして語られます。そこには旧約と新約の間に一種の「断絶」を想定する視座があります。「旧約聖書はこう教えるが、私はこう教える」というイエスの言葉は、旧約の権威を否定し、全く新しい、より高次元な倫理を与えたと理解されがちです。その最たる例として、以下の箇所が挙げられます。

43 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 
44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 

マタイの福音書5章43-44節(口語訳聖書)

しかし、果たしてイエスは旧約聖書と異なる独自の教えを語ったのでしょうか。旧約聖書よりも自らの教えを権威づけたのでしょうか。もしそうなると、イエスの教えとは旧約聖書とは全くの別物ということになりかねないでしょうか。そもそも、旧約聖書のどこを探しても「敵を憎め」という命令は存在しません。つまり、イエスが対峙していたのは旧約聖書の真理そのものではなく、後世に付着した「伝統的な解釈」であった可能性があります。

イエスが提示した「敵のために祈る」という徹底した倫理は、実はすでに旧約聖書という土壌の中に、その源泉が隠されていたのではないか。本稿では、いわゆる「呪い」の言葉に満ちているとされる詩篇83篇を、イエスの教えの「構造的な源泉」として再考します。一見すると対極にあるように見える「呪い」と「愛」の間に、いかなる連続性が存在するのか。テキストの構造分析を通して、その関係を考察します。

1. 感情の言語化:暴力の抑止と言葉への転換

詩篇83篇の冒頭(1-8節)には、国家の存立を脅かす外敵に対する生々しい恐怖と憤怒が記録されています。ここでの重要なポイントは、詩人がその破壊的なエネルギーを即座に物理的な武力行使へと繋げるのではなく、神への祈りの「言葉」に変換している点にあります。

人間は通常、処理しきれない怒りを直接的な暴力によって解消しようとしますが、詩人はそれを絶対者への訴えという形に昇華させました。この「感情を言葉にする」という行為は、暴力の衝動を信仰の枠組みの中で取り扱い、人間による恣意的な私刑を抑制するための知的なプロセスとして機能していると言えるかもしれません。

『詩篇』を理解する上で、おそらく最も重要と思われる視点は、詩人の「感情」にあるように思われます。この点については、いつか別の機会に考察します。

2. 「裁きの委託」という非暴力の論理

詩篇83篇の9節から15節に展開される凄惨な裁きの要請は、一見すると愛の教えとは対極にある未熟な感情の発露に見えます。しかし、これを「裁きの権利の委託」という神学的な論理から捉え直すと、その本質的な意義が浮き彫りになります。

詩人は一貫して「私が報復する」とは述べず、「神がしてくださるように」と願います。これは、人間が自らの手で正義を完結させようとする「復讐権」を、唯一の正しい審判者である神へと全面的に返還する行為です。人間による裁きは、不完全な正義感に基づく報復の連鎖を招くリスクを常に孕んでいますが、裁きの執行を神の手に委ねることで、詩人は自らを暴力の主体から切り離しています。この神の主権に対する徹底した受動性こそが、後にイエスの生き様に見られる「悪に抵抗しない」という非暴力倫理を成立させるための、確かな土台となっているのです。

3. テキストに見る目的の転換 ── 認識の変容

この詩において、最も重要な転換点は、祈りの終結に向かう16節から18節にあります。ここで、祈りの目的が劇的に変化します。

16 彼らの顔に恥を満たしてください。 主よ、そうすれば彼らはあなたの名を求めるでしょう。
17 彼らをとこしえに恥じ恐れさせ、あわて惑って滅びうせさせてください。
18 主という名をおもちになるあなたのみ、全地をしろしめすいと高き者であることを彼らに知らせてください。

詩篇83篇16-18節(口語訳聖書)

ここで詩人が願っている「恥」とは、単なる屈辱ではなく、自らの過ちに気づき、神の前に立つことができないという自覚を促すものです。祈りの冒頭で「滅ぼすべき対象」であった敵は、祈りのプロセスを経ることで、最終的には「神の主権を認識し、その名を悟るべき存在」(18節)へと再定義されています。

「呪い」という激しい言葉を紡ぎ抜き、神と格闘し続けたそのプロセスそのものが、詩人の視座を「自分たちの生存」という差し迫った関心から、「敵をも含むすべての人に神の主権が認められること」という広い地平へと押し広げたと言えます。この「敵を主権者なる神の統治下にあるべき人間として捉え直す」という認識の変容こそが、新約聖書における「敵のために祈る」という行為の、構造的な原型(プロトタイプ)だと言えるのではないでしょうか。

結論:源泉としての詩篇、結実としてのキリスト

以上の考察から、イエス・キリストの「敵を愛し、迫害する者のためにのために祈りなさい」という教えは、旧約の伝統から切り離された孤立した教えではないことが分かります。むしろ、詩篇83篇の詩人が暗闇の中での格闘の末にようやく辿り着いた「敵を神の前に差し出し、その回復(救い)を願う」という感情の軌跡を、信仰者が歩むべき普遍的な姿勢として鮮明に提示されたものと捉えるべきではないでしょうか。

敵のために祈ることの源泉は、旧約の詩人が抱えた生々しい呪いや怒りを、不都合なものとして隠すことなく神の前で言葉にし続けた、あの誠実なプロセスの中にあります。愛というものは、単なる感傷的な情緒ではなく、激しい葛藤と徹底して神にゆだねるプロセスを経て到達する、極めて強靭な論理に支えられたものだと言えます。

力による解決が優先されがちな今日、この「祈りの源泉」に立ち返ることは、感情を暴力へと直結させないための論理的な防波堤となります。詩篇の呪いからイエスの敵愛へと至る一連のプロセスは、単なる宗教的理想を超え、私たちが目指すべき平和構築の確固たる指針を提示しています。

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