昨今、世界の情勢が刻一刻と変わっていく中で、世界的に武力への比重が高まっているように思われます。

現実的に考えるなら「軍事力は必要だ」という意見が大半を占めるでしょうし、それを明確に否定できるほど甘い状況にないことも事実です。私たちはまさに、戦いが隣り合わせの世界に生きていることを痛感しています。

しかし、武力に資源を投じるよりも、生活を豊かにするものに投資した方が「効率」が良いことは誰もが知っています。軍事力とは本来「使わない」ことを前提とした均衡のための道具であるはずです。それでも、絶対に使われないとは断言できない現実があります。

この閉塞感の中で、私たちは聖書から何を学ぶことができるでしょうか。

1. 「無抵抗」か「暴力」か、という二択を超えて

しばしば、悪や武力に対して取れる選択肢は、「無抵抗」か「暴力的な抵抗」かの二つだけだと思われがちです。そして、このテーマで必ず引用されるのが、山上の説教のこの一節です。

38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 
39 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。

マタイによる福音書5章38-39節(口語訳聖書)

この箇所は、多くの場合、「やられたら、やられっぱなしにせよ」という無抵抗の教えとして解釈されてきました。しかし、それは悪人を野放しにすることにならないでしょうか。厳密にその解釈を取るなら、警察さえ必要ないということになってしまいます。

聖書を重んじるからこそ、私たちはこの一見スルーしがちな言葉に真剣に向き合う必要があります。先人たちの知恵を借りながら、この言葉の「奥にある真意」を探ってみましょう。

2. ウォルター・ウィンクが解き明かす「第三の道」

聖書学者ウォルター・ウィンクは、悪に対する対処法は二つではなく、三つあると提唱しました。

  1. 無抵抗(屈服)
  2. 暴力的抵抗(報復)
  3. イエスが提唱した「非暴力的闘争」(第三の道)

ウィンクは、「手向かう」と訳されている「ἀνθίστημι(アンティステーナイ)」という言葉の語源に注目します。この言葉は「〜に対立する」を意味する「アンティ」と、動詞の「ヒステーミ」から構成されます。そして、「ヒステーミ」の名詞形(スタシス)が「暴力的反乱、武装蜂起、激しい衝突」を意味することから、ここでの正しい翻訳は、「悪(あるいは、あなたに悪を行う者)に対して、同じように殴り返してはならない」「暴力に対して暴力で報復してはならない」となることをウィンクは指摘します。つまり、イエスは「無抵抗であれ」と言ったのではなく、「暴力の連鎖に乗るな」と言われたということです。

それでは、無抵抗主義を教えているように思われる「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」はどのように解釈したらよいでしょうか。ウィンクの興味深い説明をご紹介しましょう。

なぜ、右の頬なのでしょうか?
人が誰かの右の頬を殴るためには、どのようにしたらよいのでしょうか?実際にやってみてください。右利きの世界では、右のこぶしで殴れば、それは相手の左頬に命中します。こぶしで殴る場合、相手の右頬に当てるためには左の手で殴らなければなりません。けれども、当時の社会では、左手は不浄な行為を行うときにだけ用いられました。クムラン共同体では、左手で何かするジェスチャーをしただけで、共同体からの隔離と十日間の苦行が科せられました。(『死海文書』1QS)右手で殴る場合、右の頬を打つ唯一の方法は、右手の背で殴ることです。そうしますと、ここで私たちが扱っている問題は間違いなく、殴り合いではなく侮辱ということになります。その目的は相手に怪我を負わせることではなく、侮辱を加えること、相手の「立場」に打撃を与えることです。
〈中略〉
それでは、なぜ、すでに侮辱を受けている人々にもう一方の頬を差し出すよう、イエスは説いたのでしょうか?それは、左の頬を向けることは抑圧者から侮辱する力を奪い取るものだからです。反対の頬を相手に向けることは、次のように言うようなものです。「さあ、もう一発どうぞ。あなたの最初のパンチは、意図したようにはいきませんでしたね。あなたにはわたしを侮辱する力はないのです。わたしもあなたと同じ人間です。あなたの地位をもってしても、わたしが人間であることを変えさせることはできません。わたしを見下すことはできないのです。」実に効果的です。

ウォルター・ウィンク、志村真訳『イエスと非暴力 第三の道』(新教出版社、2006年)、19-21頁

このように、なぜ「右の頬」なのか、そして、なぜ「左の頬」を向けるのかを、当時の社会的な背景を踏まえて理解することで、これがただの無抵抗の教えではないことを、ウィンクは説明しています。詰まるところ、これは無抵抗ではなく、非暴力の抵抗です。ウィンクはこのように結びます。「(手の甲で叩くことで)権力を持つ者が、他者を非人間化する力を剥ぎ取られるのです。こうした対応方法は、無抵抗や臆病の勧めとはまったく対極的であり、公然たる挑戦です。」(22頁)

確かに、このような抑圧が起きる場面というのは、多くの場合、立場が対等ではなく、必然的に「上」と「下」に分かれています。そして、それはウィンクが指摘しているように、上のものはしたのものを「非人間化」していると言えます。つまり、人間としては見ておらず、蔑んでいるということです。そのような状況で、非抑圧者には三つの選択肢があり、その中でイエスが教えられたのは、無抵抗でも暴力的抵抗でもなく、第三の道でした。それは、相手と対等であることを示すということです。

3. N.T.ライトが語る「対等な存在」としての抗議

新約聖書学者のN.T.ライトも、同様の解釈を述べています。

To be struck on the right cheek, in that world, almost certainly meant being hit with the back of the right hand. That’s not just violence, but an insult: it implies that you’re an inferior, perhaps a slave, a child, or (in that world, and sometimes even today) a woman. What’s the answer? Hitting back only keeps the evil in circulation. Offering the other cheek implies: hit me again if you like, but now as an equal, not an inferior.

[拙訳]右の頬を打たれるということは、当時の世界では、ほとんど明らかに右手の甲で殴られることを意味していた。それは単なる暴力ではなく、侮辱である。つまり、お前は下等な存在だ、おそらく奴隷か、子供か、あるいは(当時の世界では、そして時には今日でも)女だということを示唆している。答えは何か? 反撃すれば悪意が循環し続けるだけだ。もう一方の頬を差し出すことは――もう一度殴りたいならどうぞ、だが今度は対等な者として、下等な者としてではなく、ということを暗示している。

Tom Wright, Matthew for Everyone, Part 1: Chapters 1-15 (London: Society for Promoting Christian Knowledge, 2004), 51–52.

イエスの教えは、単に「やられっぱなし」でいることを推奨しているのではありません。むしろ、抑圧の原因である「立場の不平等」を突きつけ、人間としての尊厳を取り戻すための行動を教えているのです。

終わりに:現代における「第三の道」の実践

この「第三の道」は、暴力で返すよりも、ただ黙って耐えるよりも、おそらく一番難しい道です。しかし、それこそがナザレのイエスの歩みでした。イエスは暴力を用いませんでしたが、この世の不正に対しては徹底的に抗議し続けました。

現代において、この道がすぐに世界を変えるのは難しいかもしれません。しかし、M.L.キングやガンジーが証明したように、この非暴力の抵抗が歴史を動かしてきたことも事実です。

私たちは、聖書の教えを「実現不可能な理想論」として片付けてしまうのではなく、まずは「悪に対して、暴力でも屈服でもない道がある」と知ることから始めたいと思います。

日々の理不尽な人間関係や抑圧の中で、自分を卑下せず、かといって憎しみに身を任せず、主の知恵を持って対等に立ち続けること。その小さな一歩に、大きな意味があるのではないでしょうか。