オーストラリアへの「自動ドア」がかすかな音を立てて動き出してから、実際に日本を飛び出すまでには、半年ほどの猶予があった。

その時期、私の通う神学校には、世界中から短期留学生たちが続々と集まってきていた。それまでの孤独な「ドア探し」の日々が嘘のように、私の周りは一気に多国籍な色彩を帯び始めたのだ。今振り返れば、あの三ヶ月間は、のちに待ち受ける嵐のようなオーストラリア生活を前に、神様が用意してくださった束の間の「休息」だったのかもしれない。

神学校の「引きこもり」

当時の私は、極めて禁欲的な(という名の、ただの極貧)生活を送っていた。 「オーストラリアでの生活費を、一円でも多く貯めなければならない」。その一心で、学食と自室と教室の往復が私の世界のすべてとなっていた。友人たちから外食に誘われても、頑なに断ってばかり。外食の思い出など、探しても埃すら出てこないほど、私は学校という狭い世界に「引きこもって」いたのだ。

そんな私の頑丈な心のドアを、文字通り無理やりこじ開けたのは、陽気な留学生たちだった。彼らは机に向かっている私の腕を掴み、問答無用で外の世界へと連れ出した。

東京観光の「主客転倒」

そこで私は、二十年弱の人生で初めての、奇妙な体験をすることになる。 まずは、東京観光だ。いつもは電車の窓からぼんやり眺めるだけだった風景が、彼らと一緒に歩くことで全く別の表情を見せ始めた。

スカイツリーの麓に立ち、「うわ、本当に高いんだな」と首を痛めている日本人。もちろん、展望台に登るような贅沢はしない。彼らのお気に入りの路地裏を歩き、安くて美味しいものを食べて回る。ふと辺りを見渡せば、外国人に東京を案内してもらっている日本人は私くらいだった。

この主客転倒の滑稽さに、私は苦笑いするしかなかった。けれども、彼らの瞳を通して見る東京は、見慣れたはずの街を瑞々しい「冒険の地」へと変えてくれた。

「Call Me Maybe」の惨劇

そして、人生最大の試練が訪れた。カラオケである。 彼らがいなければ一生縁がなかったであろうその場所で、部屋には耳慣れない洋楽のオンパレードが響き渡る。ついに、私の順番が回ってきた。

咄嗟に選んだのは、当時どこへ行っても流れていたカーリー・レイ・ジェプセンの「Call Me Maybe」。今思い出しても、当時の自分の正気を疑う。キーの高さも、ましてや英語の歌詞のスピード感も、何一つ分かっていなかった。「有名な曲なら、なんとかなるだろう」という甘い見通しは、前奏が始まった瞬間に粉々に砕け散った。

結局、私は意味不明な呪文を唱え続けるだけの悲惨な結果に終わった。盛り上がるどころか、部屋には何とも言えない「憐みの空気」が漂う。その直後、一緒に行った日本人の先輩が、RADWIMPSの「ん」を完璧な発音の英語で華麗に歌い上げた時の衝撃は忘れられない。

拍手喝采の中で、私は自分の無策さを嘆かずにはいられなかった。留学生たちが当時世界中で流行っていた「The Fox」を全力で踊り狂う中、私だけは冷や汗を拭うのに必死だった。

「メモ」という名の武器

しかし、彼らとの日々は単なる遊びでは終わらなかった。私は彼らの姿から「学ぶ姿勢」を教わった。

彼らは会話の中で知らない言葉に出会うと、すぐさまスマホを取り出し、メモをした。そして、学んだばかりの言葉を、わずか五分後の会話の中でさも前から知っていたかのように使いこなす。彼らのメモの中には、覚えたての日本語がびっしりと書き込まれていた。

その「貪欲さ」こそが、言葉の壁を打ち破る唯一の武器であることを、私は彼らの背中から学んだように思う。

この時期に育まれた友情が、のちにオーストラリアでの生活に行き詰まり、孤独に押し潰されそうになった私を救うことになるのだが……それはまだ、先の話である。

(続く)