「祝福」とは、一体何でしょうか。聖書の中ではお馴染みのフレーズであると同時に、最近ではニュースなどのメディアを通じて、この言葉を頻繁に見聞きするようになりました。しかし、そこで語られている文脈から浮かび上がるイメージは、聖書が本来教えている祝福の姿とは、どこか大きな乖離があるように思えてなりません。
ともすると、祝福とは何かを支払うことの代償として得られるもの、あるいは清廉潔白に生きた結果としての報酬のように思われがちですが、聖書が語るのはそのようなものとは全く反対です。しかし、だからといって祝福が、ただ受け身で待っていれば降ってくるような安価な幸運であるとも言い切れません。なぜなら、そこには、もっと泥臭く、もっと痛みを伴うような、魂の「格闘」が秘められているからです。
その象徴が、ヤボクの渡しでのヤコブの格闘です(創世記32:22-32)。彼は「私を祝福してくださるまでは、あなたを去らせません」と、正体不明の相手に夜通ししがみつきました。聖書には「ある人」とあります。この人物は、伝統的に「神」を指すと解釈されてきました。つまり、ヤコブは神と格闘したのです。ここにあるのは、行儀の良い祈りではありません。なりふり構わぬ必死さ、これなしでは一歩も先へ進めないという絶望的なまでの「渇望」です。祝福とは、何かを得るための取引ではなく、むしろ神という圧倒的な他者に対して、命がけでしがみついてでも「出会いたい」と願う、切実な関係性の希求なのだと、ヤコブの姿は教えてくれます。
ヤコブというのは、兄エサウを欺き、長子に与えられる祝福を奪った人物です。そのヤコブが、本当の祝福を神に求めて必死になっています。興味深いのは、その格闘の果てに彼が手にしたものです。もし祝福が世俗的な「ご利益」なら、彼はより完璧で強靭な人間になって、悠々と兄エサウの前に現れたはずです。ところが、彼は腰の関節を打たれ、一生足を引きずって歩くことになりました。祝福を得たと同時に、彼は「傷」を負ったのです。
これは、本当の祝福とは「強くなること」ではなく、むしろ自分の高慢さを砕かれ、「神様に寄りかからなければ歩けない弱さ」を引き受けることを示しているように思われます。私たちは弱さを克服することを祝福と考えがちですが、聖書が描く祝福は、その弱さこそが神様と共に歩むための「接点」になるのだと告げている気がします。
そしてその格闘の末、彼は「ヤコブ(人を欺く者、踵をつかんで押しのける者)」から「イスラエル(神と闘う者)」へとその名を変えられました。これこそが、祝福の最も深い本質かもしれません。ヤコブはそれまでの経験を通して、そして何よりも神との個人的な格闘を通して、変えられ、新しい人とされました。かつてのヤコブにとって、祝福とは自分の利益のために奪い取るものであったかもしれません。しかし、本当の祝福は、それとは違いました。何かが手に入ること以上に、自分が「何者であるか」を神様との関係において再定義されること。その圧倒的な肯定の中にこそ、私たちが求めてやまない真の居場所、すなわち祝福があるのではないかと思います。
この際のヤコブの心情について、遠藤氏はこのように述べます。
その祝福を得なければ、自分はどうにならないと感じているのです。たとえエサウによって命を奪われようが、自分の抱えている課題がどれほど大きいものであろうが、そのようなことはもはや問題ではありません。根本において、私の魂が神によって祝福されなければ、私が神に救われなければ、意味はないと感じているのです。私の魂の問題こそが、自分の全生涯にとって最も深刻な課題であり、最重要事項であると、ヤコブは理解しているのです。
遠藤嘉信『私を祝福してくださらなければ—荒削りの信仰者ヤコブの生涯』(いのちのことば社、2006年)、203頁
以前、民数記6章24-27節の「アロンの祝福」について記事を書きました。
ここに出てくる「祝福」と訳されるヘブル語「ברך(バラク)」の語源には、「膝をかがめる」という意味が含まれています。大きな存在が、わざわざ私たちの目線に合わせて膝を折ってくださる。その「眼差し」と出会うために、私たちは時にヤコブのように、自分自身の偽りの鎧を脱ぎ捨てるための格闘を必要とするのかもしれません。
祝福とは、私たちが何かを達成したことへの「報酬」ではありません。むしろ、ヤコブのように格闘し、自分の力ではどうにもならない限界を知り、「あなたなしでは生きていけません」と降参したときにようやく受け取れるもの。それは、自分を強く見せるための鎧を手に入れることではなく、神様の眼差しの前に、ありのままの自分で立ち尽くす体験そのものなのです。
格闘の末にヤコブが負った「足を引きずる」という傷跡。それは、一見すると不運な結末に見えるかもしれません。しかし、その傷こそが、彼がもはや自分の足だけで逃げ回る必要はなく、神様に寄り添われて歩む者になったという、消えることのない「祝福の印」となりました。私たちの人生にも、人には言えない弱さや、癒えない傷があるかもしれません。けれど、もしその傷のおかげで神様の「膝をかがめる」ほどの深い愛に触れることができたのなら、その傷跡こそを私たちは「祝福」と呼んでもよいのではないでしょうか。
世界には、今日も「条件付きの祝福」を謳う言葉が溢れています。そのような中で、目を留めたいことは、不器用で、傷だらけで、それでも神にしがみつく者へと注がれる、神の一方的な「微笑み」という祝福です。
何かを成し遂げなくても、ただそこにいるだけで、主なる神が目を向けてくださっている。その圧倒的な肯定の眼差しの中に、自分という存在が置かれていること。あの「アロンの祝福」が最後に約束しているように、この確信こそが、荒野のような現代を歩き続けるための、本当の意味での Shalom(平安) なのだと思わされます。そのような傷だらけの、しかし確かな祝福をヤコブの姿から学ぶことができます。
