最近、ニュースを見ていると、世界的に「帝国主義」や「権威主義」と呼ばれるような、強い力を持った指導者による支配が復権してきているように感じます。それは裏を返せば、これまで培われてきた「民主主義」というシステムが、少しずつ後退し、機能不全に陥っているということなのかもしれません。

では、なぜ世界は再び「強い指導者(王)」を求め始めているのでしょうか。

「他の国々と同じように、王を!」——サムエル記の警告

そもそも民主主義とは、「人間が素晴らしいから」できた制度ではなく、むしろ「人間は権力を持つと必ず堕落するから、権力を分散させて監視し合わなければならない」という、人間の罪(不完全さ)を前提としたシステムだと言えます。

しかし、民主主義は手続きが煩雑で、意見がまとまらず、社会が混乱しやすいという弱点を持っていることも事実です。終わりの見えない議論や分断に疲れ果てた時、人々は「自分たちを一瞬で救い、力強く導いてくれる正しくて強いリーダー」を渇望するようになります。

旧約聖書の『サムエル記』には、この人間の悲しい性質を見事に描き出したエピソードがあります。イスラエルの民が、預言者サムエルに対して「他のすべての国々と同じように、私たちを治める王を立ててください」と要求する場面です(サムエル記上8章)。

これに対し、神はサムエルを通して、人間の王がどのような支配をするかを厳しく警告します。

10 サムエルは王を立てることを求める民に主の言葉をことごとく告げて、 
11 言った、「あなたがたを治める王のならわしは次のとおりである。彼はあなたがたのむすこを取って、戦車隊に入れ、騎兵とし、自分の戦車の前に走らせるであろう。 
12 彼はまたそれを千人の長、五十人の長に任じ、またその地を耕させ、その作物を刈らせ、またその武器と戦車の装備を造らせるであろう。 
13 また、あなたがたの娘を取って、香をつくる者とし、料理をする者とし、パンを焼く者とするであろう。 
14 また、あなたがたの畑とぶどう畑とオリブ畑の最も良い物を取って、その家来に与え、 
15 あなたがたの穀物と、ぶどう畑の、十分の一を取って、その役人と家来に与え、 
16 また、あなたがたの男女の奴隷および、あなたがたの最も良い牛とろばを取って、自分のために働かせ、 
17 また、あなたがたの羊の十分の一を取り、あなたがたは、その奴隷となるであろう。 
18 そしてその日あなたがたは自分のために選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。しかし主はその日にあなたがたに答えられないであろう」。

サムエル記上8章10-18節(口語訳聖書)

つまり、人間の王による支配の本質は「民から奪い、搾取すること」だと神は警告したのです。しかし、それでも民は「いや、我々の上には王がいなければならない」と、目に見える強いリーダーを求めました。

帝国主義の致命的な欠陥

強いリーダーシップが国をまとめる。その考え方自体は、間違っていないのかもしれません。もし、そのトップに立つ人間が「完全に正しく、完全に愛に溢れた存在」であるならば、その国に住む国民は間違いなく幸せなはずだからです。

しかし、サムエルの警告通り、人間の歴史において帝国主義が常に悲劇を生んできた理由は、ただ一つ。「支配者の堕落」にあります。

どれほど最初は理想に燃えていたリーダーでも、絶大な権力を握れば必ず腐敗します。そして、国民を守るためだったはずの権力が、いつしか王自身の欲望を満たし、体制を維持するための暴力へと変わり、サムエルが語ったように国民から搾取するようになるのです。すなわち、それはシステムの問題ではなく、その座に座る人間の「罪」こそが、帝国主義の根本的な問題だと言わざるを得ません。

「神の国」という究極の絶対君主制

こうした人間の政治の限界を踏まえた上で、聖書が提示する「神の国」という概念を見つめ直すと、非常に興味深いことに気づきます。

聖書が究極の希望として描く「神の国」は、民主主義ではありません。それは主なる神、そして王なるキリストがすべてを治める「完全なる絶対君主制」です。

先ほど、「完全に正しい王が支配するなら、国民は幸せなはずだ」と書きました。神の国とは、まさにその理想が現実となった世界だと言えます。支配者が決して堕落せず、完全に正しく、完全に民を愛しているからこそ、その支配下にある人々は真の自由と平安を味わうことができるのです。

たらいと手ぬぐいを持った王

では、この「神の国」を治める王は、人間の世界の王たちとは何が違うのでしょうか。

サムエルが警告したように、人間の世界の支配者は、武力で民を従わせ、民の財産や家族を「奪い」、自分のために働かせて王座にふんぞり返ります。国民は、国(王)を豊かにするためのモノとして消費されていきます。

しかし、聖書が示す王であるイエス・キリストの姿は、その真逆でした。彼は王であるにもかかわらず、自ら上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいを巻き、膝をついて、弟子たちの汚れた足を洗いました(ヨハネ13章)。そして最後には、民から命を奪うのではなく、民を生かすために自らの命を十字架で差し出したのです。

「天に登ろうとする皇帝」と「しもべとなる王」

実際、この「仕える王」という概念は、当時最大の帝国主義であったローマ帝国に対する、極めて危険で挑戦的なメッセージでした。

近年の新約聖書学(「パウロと帝国」に関する研究)では、使徒パウロが手紙の中で、当時の帝国のイデオロギーに真っ向から立ち向かっていたことが明らかにされています。たとえば、パウロはピリピ人への手紙(2章)で、キリストは「神の身分でありながら、自らを空しくしてしもべの姿をとった」と記しています。新約聖書学者のジョシュア・ジップ(Joshua W. Jipp)は、このパウロの言葉が、自らを神格化しようとする地上の皇帝たちへの痛烈なアンチテーゼであったと指摘し、次のように述べています。

But, unlike the ancient rulers who cultivated divine honors or usurped worship that belonged only to God (or the deities), Christ subverts this notion of power through his death on the cross and embraces “the most dishonorable public status and the most dishonorable public humiliation imaginable in the world of Roman antiquity.” As I have summarized elsewhere, “True divine rule and power is revealed, then, in the Messiah’s refusing to exploit equality with God, and instead, in a total reversal of the pattern of those usurping kings who seek to ascend to the heavens, obeying YHWH and refusing to make use of divine honors and prerogatives.”

[拙訳]しかし、神にのみ属する神的な誉れや礼拝を強奪した古代の支配者たちとは異なり、キリストは十字架での死を通してこの権力の概念を転覆(subvert)させ、ローマの古代世界で想像しうる『最も不名誉な公的地位と、最も不名誉な公的屈辱』を受け入れたのである。私が他で要約したように、『真の神的な支配と権力は、メシアが神との同等性を利用することを拒んだことの中に示されている。それは、(自分を神格化して)天に昇ろうとする(ascend to the heavens)簒奪する王たちのパターンを完全に逆転させ、神に従って神的な誉れや特権を行使することを拒絶した姿なのである』。」

Joshua W. Jipp, “Paul and the Messiah,” in The State of Pauline Studies: A Survey of Recent Research, ed. Nijay K. Gupta, Scot McKnight, and Erin M. Heim (Grand Rapids, MI: Baker Academic: A Division of Baker Publishing Group, 2024), 19–20.

当時のローマ皇帝(たとえばカリグラなど)や地上の権力者たちは、人々に自分を「神」として崇拝させる(=天に登る)ことで民を支配していました。しかし、パウロはそれに対し、「真の神、真の王とは、特権を振りかざして上に登ろうとする者ではなく、一番下まで降りてきてしもべとして仕える方だ」という、帝国の価値観を根底から覆す主張を展開したのです。

さらにローマ帝国にとって「十字架」とは、反逆者を最も残酷に処刑し、民衆に恐怖を植え付けるための「帝国の暴力と支配の象徴」でもありました。しかし、パウロはまさにその十字架で、最も不名誉な姿で死んだ者こそが、世界の「主」であると宣言しました。帝国の暴力と搾取のシステムが、自己を犠牲にする「愛と奉仕の極致」へと完全に書き換えられたのです。

人間の帝国主義は、長い人類の歴史で証明されているように、「民が王に仕え、奪われるシステム」ですが、神の国は「王が民に仕え、ご自身の命を与えるシステム」です。権力と支配の概念が、根底から完全にひっくり返っているのです。

まとめ

私たちは、どこかで「完璧なリーダー」を求めています。しかし、人間の世界には堕落した王しか存在しません。だからこそ、民主主義という「次善の策」でなんとか社会を維持しようと必死にもがいています。

世界が再び帝国主義的な傾向に進みつつある今、政治的な解決策に絶望するのではなく、かといって地上の強い指導者に盲目的に期待するのでもなく、しっかりと考えて、物事と向き合っていくことが重要であるように思われます。

聖書は「たらいと手ぬぐいを持って人々に仕える王」による支配という、全く異なるパラダイムを提示しています。力による統治が再評価されつつある現代において、この逆説的な支配のあり方に目を向けることは、今の社会のあり方を相対化し、私たちが本当に求めるべき世界を見つめ直すための、確かな視座となるのではないでしょうか。