ここ最近のAIの進化は目覚ましいものがあります。ある科学者は、AIによって『10億年分の研究時間が1年に圧縮された』とさえ表現しました。これまでの100年分の進歩が、向こう10年で起きてしまう。そんな時代に私たちは生きています。
ふと、今の学生たちのことを思うと、大変な時代になったなと同情を禁じ得ません。 AIを使って効率的に学ぶのか、あえて使わずに自分の頭で考えるのか。あるいは、AIを使いこなして成果を出しても「これはAIがやったんじゃないか?」と疑われてしまうのか。 便利な道具があるゆえの難しさが、そこにはあります。
個人的には、この技術の進歩自体は歓迎すべきことだと思っています。 私自身、限られた時間の中で、調べなければならないことは山のようにあります。その助け手が与えられるのは、願ってもないことです。
その一方で、この技術を単に「便利だから」という理由だけで使うことには、慎重であるべきだとも感じています。というのも、どんなに優れた道具も、使い手がその「目的」を見失えば、道具に使われることになりかねないからです。 重要なのは、効率化そのものではなく、「その余った力で、私たちは何をするのか」という「理念(フィロソフィー)」を持つことではないでしょうか。
1. 私の「長い腕」としてのAI
これまでは、何か一つの神学的テーマを深めようと思えば、図書館にこもり、膨大な先行研究を読み込み、何時間もかけて論文を探す必要がありました。今振り返れば、たった一つの論文を書き上げるために、どれだけの時間をかけて書架の間をさまよったことか。それはそれで懐かしい思い出ですが、物理的な時間と体力の限界によって、どうしても「手の届かない棚」があったことは確かです。
しかし、AIというツールは、その距離を一気に縮めてくれます。複雑な神学書の要約、原語のニュアンスの検索、関連する聖句の網羅。これまでなら諦めていたような知識の領域に、この「長い腕」を使えば、座ったままでパッと手が届くのです。
このようなAIの活用は、間違いなく「説教」に深みをもたらします。
意見の分かれるところかもしれませんが、私は、説教とは牧師が個人的な意見を発表する場ではないと考えています。それは、聖書に記されている「汲めども尽きない泉」を分かち合う行為です。
そのプロセスにおいて、先人たちがどう聖書を解釈してきたかを知ることは不可欠です。自分だけしか言っていないような突飛な解釈(そういう預言的な言葉もないとは言いませんが)に走るのではなく、これまで紡がれてきた神学の歴史の変遷を辿ることなしに、現代に語るべき神学はないように思うのです。
そして何より、説教において最も重要なこと。それは、語られる言葉を牧師自身が生きているか、ということです。
これが、私たちがAIを単なる便利な道具として終わらせてはならない理由です。AIという「長い腕」を使って知り得た深遠な真理を、語る者自身がどう生きているのか。それは日々の泥臭い生き方を通して証明されなければなりません。
そうでなければ、説教などAIに語らせておけば済む話なのですから。
2. 「あ、これAIか…」という失望の正体
AIのメリットについては、すでに多くの方がご存知だと思います。しかしその一方で、私たちは奇妙な感情も抱いています。
例えば、SNSで息をのむほど美しい絵が流れてきたとします。最初は「すごい!」と感動するのですが、次の瞬間に「#AI生成」というタグを見た途端、「あ、なんだ、AIか……」と急に熱が冷めてしまう。そんな経験は誰にでもあるのではないでしょうか。
絵のクオリティは完璧です。色彩も構図も、人間よりも正確かもしれません。それなのに、なぜ私たちはガックリと失望してしまうのでしょうか。
それはおそらく、私たちが芸術や言葉に求めているのが、単なる「綺麗な結果」だけではないからではないかと思います。私たちは無意識のうちに、その作品の背後にある「人間の泥臭いプロセス」を探しているのです。
悩み、苦しみ、何度も書き直し、時間を削って生み出された「命の痕跡」。それがないと分かった時、どんなに完璧な絵も、ただの「データの羅列」に見えてしまう。 AIには「痛み」がありません。葛藤もありません。0.1秒で出力された「結果」には、私たちの魂を揺さぶる「物語」が欠落しているのです。
この失望感が教えてくれるもの。それは、私たちが無意識のうちに「苦労(コスト)のかかっていないもの」を軽く見ているという事実です。
どんなに便利な技術を使っても、受け手がそこに「書き手の汗」や「費やされた時間」を感じ取れなければ、その言葉は右から左へと流れていってしまいます。
「要するに、楽をして作ったんでしょう?」
そう思われた瞬間に、言葉(生み出されたもの)は力を失うのです。だからこそ、AIという便利な道具を使うときには、単なる効率化以上の「理念(フィロソフィー)」が問われます。
「楽をするために使う」のか、それとも「より本質的な苦労に向き合うために使う」のか。 この姿勢の違いこそが、AI時代における「本物」と「偽物」を分ける分水嶺になるのではないでしょうか。
3. 神の「長い腕」と、汗まみれの「受肉」
ここで聖書が示す神に目を向けると、驚くべき対比が見えてきます。
見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
イザヤ書59章1節(口語訳聖書)
聖書は、神が全能であり、宇宙の果てまで届く、誰よりも「長い腕」を持っておられると語ります。その気になれば、天から「完璧な救い」をダウンロードさせることも、遠隔操作で私たちを助けることもできたはずです。それは最も効率的で、神にとっても「痛みのない」方法だったでしょう。
実際、神は歴史の中で、代理人(ツール)を使って遠くから問題を解決されたことがあります。 バビロン捕囚という絶望の中にいた民を救うために、神はペルシアの王キュロスを用いられました。神を知らない異国の王を「道具」として使い、政治的な解決策によって民を解放したのです。 これは、いわば神の「長い腕」による効率的な解決でした。AIが私たちの仕事を処理してくれるように、神はキュロスを使って、民の環境を一変させました。
しかし、聖書の歴史を見る時、私たちはある悲しい事実に突き当たります。 それは、キュロスによる解放が、民にとって「本当の救い」にはならなかったということです。確かに祖国に帰ることはできましたが、民の心は荒廃したままでした。相変わらず神から離れ、罪の中に留まり続けました。 「便利な道具(政治力)」で環境は変えられても、「人の心」までは変えられなかったのです。
だからこそ、神は次の一手を打たれました。 イザヤ書はこう続けます。
主は人のないのを見られ、仲に立つ者のないのをあやしまれた。
イザヤ書59章16節(口語訳聖書)
それゆえ、ご自分のかいなをもって、勝利を得、その義をもって、おのれをささえられた。
神はもう、代理人(道具)を使うのをやめられました。 ご自分の「かいな(腕)」をもって、直接介入することを決断されたのです。
しかし、驚くべきは、その「腕」の現れ方です。 神は、その全能の腕で天から敵をなぎ倒すのではなく、あえてその無限の腕を人間のサイズまで縮め、不便で、傷つきやすく、汗と埃にまみれる「肉体」となって人の間に住まわれたのです。 これこそが「受肉(インカーネーション)」です。
ではなぜ神は、便利な「長い腕(キュロス)」ではなく、痛みご自身の伴う「短い腕(イエス)」を選ばれたのでしょうか?
それは、「痛み」や「泥臭さ」を共有しない愛は、人の心には決して届かないからです。 AIのような「高みからの出力」ではなく、裏切りや嘲笑を受け、十字架という最も泥臭く、苦しい「プロセス」を通ることでしか、頑なな人の心は溶かせなかったのです。
私たちがキリストに心を打たれるのは、彼がキュロスのように「政治的な正解」を出したからではなく、私たちのために「血と汗」を流されたからではないでしょうか。
4. 「長い腕」で学び、「短い腕」で愛する
AIの登場によって、私たちは多くの「非効率な作業」から解放されます。それは素晴らしいことです。これからもこの「長い腕」は伸び続け、私たちはより多くの知恵に触れられるようになるでしょう。
それによって、これまで当たり前であった常識が、ガラリと変わってしまうこともあるはずです。しかし同時に、AIが進化すればするほど、逆に「AIには絶対に代替できないもの」の価値が、鮮明に再発見されていくはずです。
その最たるものが、教会の役割です。
私たちは、AIという「長い腕」を使って、神学を深め、効率的に働き、知的な探求を加速させる道が開かれました。しかし、その深められた知恵を隣人に届けるときは、あえて「短い腕(生身の身体)」を使わなければなりません。
考えてみてください。仮にAIが、過去のあらゆる祈祷文を学習し、完璧で感動的な「祈り」を生成したとします。しかし、私たちはそこに何かが決定的に欠けていることを知っています。 なぜなら、祈りとは単なる情報の出力ではなく、神と人との人格的な交わりだからです。 説教も同じです。どれだけ高尚な知識を披露しても、それが語る者の生き方と乖離しているなら、誰も耳を傾けはしないでしょう。言葉は、その人の生き様という「肉体」を通ることで初めて、重みを持つのです。
私たちが求めているのは、単なる正解データではなく、「肉体によって裏付けられた知識」です。そしてそれこそが、生身の人間が集まる教会においてのみ、見出せるものなのです。
もちろん、これは「教会が完全な共同体である」ことを意味しません。 むしろ、教会にあるのは「泥臭い交わり」「面倒な人間関係」、そして「共有される痛み」といった、スマートなAIとは無縁の事柄ばかりです。しかし、効率化が叫ばれる時代の中で、この泥臭さこそが、何よりも求められる価値ある輝きとなっていくのではないでしょうか。
教会とは、聖書の知識に裏付けられた生き方を、泥臭く学び、実践する場所です。 なぜ教会なのか。それは、そこが「安心」できる場所だからです。 AIの世界では「エラー」は許されませんが、教会には信頼がある限り、失敗しても何度でもやり直せる恵みがあります。 私たちはこの「安心」の中で、神の愛を不器用に実践し、そこで培ったものを携えて、それぞれが日々生かされているところへと出ていくのです。
結び
ここ数年でAIの性能は爆発的に伸びています。それはまさに、人間にとっての「長い腕」となるものです。個人的には、これを利用しない手はないと考えています。
とはいえ、同時に問われることがあります。果たして、そのような際限のない情報を、どれだけ自分自身の生き方に落とし込めるのか、ということです。 よく「現代人の1日の情報量は、江戸時代の1年分に匹敵する」と言われます。そのような情報の奔流を、一人の人間がどこまで受け止め切れるのか。正直なところ、私には分かりません。
だからこそ、ただ闇雲に「長い腕」を伸ばして情報にアクセスすればいい、というわけではないとも思います。何が本当に意味あることなのか。何を選び取り、それをどう人生に活かすのか。
そこで必要になるのが、冒頭でも触れた「理念(フィロソフィー)」です。知識をただのデータとして終わらせず、自分の血肉とするための指針が、今ほど求められている時代はありません。
AIによって得られる情報は今後も増え続けるでしょう。それは、私たちにとって神学的な理解を深める重要なツールであり続けます。 しかし、同時に忘れてはならないこと。それは、私たちが本当に救われるのは、情報の正しさによってではなく、誰かの「泥臭い愛」に触れたとき、だということです。
神学(言葉)は「長い腕」で探求し、信仰者としての歩み(愛)は「短い腕」で実践する。
この二つの腕を持つことこそが、これからの時代を生きるキリスト者の、新しい歩み方ではないでしょうか。
