昨日はイースターでした。礼拝を終えた夕方、少し時間ができたので、映画『キング・オブ・キングス』を観に行ってきました。
このクリスチャン・アニメーションは、アメリカでは韓国映画史上最大のヒットを記録するほどの社会現象になったそうです。しかし、日本では(素晴らしい作品であるにもかかわらず)そこまでの大きな波にはなっていません。映画を観終わった後、その「熱狂の違い」の理由が少し分かった気がしました。
本作は、イギリスの文豪チャールズ・ディケンズが我が子のために書いた『主イエスの生涯』がモチーフになっています。映画の中では、ディケンズが幼い息子ウォルターにイエス様の生涯を読み聞かせ、ウォルターがあたかもその場にいるかのような臨場感で物語を追体験していく、という構成で描かれています。
荒野の誘惑、盲人の癒し、宮清め、ラザロの復活、そして十字架。クリスチャンにとってはどれもお馴染みのエピソードが続きます。そしてクライマックス、不条理のうちに十字架で苦しむイエスの姿を見たウォルターは、「これが自分のためなのだ」という事実に気づきます。それは、彼が歴史上の知識を「自分に対する福音」として個人的に受け取った、非常に尊い瞬間として描かれていました。
この少年の姿を見たとき、この映画がアメリカで大ヒットした理由が分かったような気がしました。
アメリカという国には、かつて子どもの頃に教会に通っていた人たちや、人生のどこかでイエスと出会ったものの、今は教会から足が遠のいてしまった人たちが数多くいます。この映画は、そうした「キリスト教の前提を共有しているが、離れてしまった人たち」に向けて、もう一度あの時の記憶を呼び覚ますような役割を果たしたのではないでしょうか。つまり、アメリカでのヒットの根底には「すでに知っている物語の再発見」という土壌があったのだと思います。
一方で、日本の土壌は異なります。日本ではそもそも、イエスの生涯についての共通の前提(原風景)が社会にありません。「すでに知っている物語」ではない以上、アメリカで起きたような、記憶を呼び覚まされることによる爆発的な現象が起こらなかったのも、ある意味で自然なことだと言えます。
しかしだからこそ、考えさせられることがあります。共通の前提を持たないこの日本の土壌において、あのウォルター少年が経験したような「イエスの物語が、私自身の物語になる瞬間」を、どのように翻訳して伝えていくのか。
ただ「思い出す」ことを促すのではなく、ゼロから「出会う」ための言葉を紡ぐこと。それは非常に難しいことですが、同時に、日本の教会に与えられている使命でもあると感じています。
この映画を通して与えられたその問いにどのように応答し、どのように形にしていくのか、深く考えさせられたイースターの夕暮れでした。
