苦しみに遭ったとき、人は理由を探します。なぜ自分だったのか、どこで間違えたのか、この出来事にどんな意味があるのか。理由がわかれば苦しみが消えるわけではありませんが、少なくともこの世界が説明のつくものであり続けます。
信仰を持つ者にとって、この問いはいっそう切実になります。神がこの世界を治めておられるのなら、自分の身に起きたことにも神の意図があるはずだ、と考えるからです。教会でも「これにも神のご計画があります」という言葉がしばしば語られます。
ヨブ記は、この問いを扱った書として知られています。義人の苦難を主題とし、苦しみをめぐる言葉が旧約聖書の中で最も長く続きます。ところが読み通してみると、期待していたものが見当たらないという印象を受けるのではないかと思います。というのも、ヨブが最後まで問い続けた「なぜ」に対して、ヨブ記は答えていないからです。
この記事は前編と後編に分かれています。前編では、ヨブ記の冒頭から、終盤で神が嵐の中から語り出す場面までを順にたどります。その上で、ヨブ記が何を伝えようとしているのかを後編で扱っています。
ヨブ記より古い問い
正しい人がなぜ苦しむのか。神が正しく、また全能であるのなら、そういうことは起こらないはずではないか。ヨブが投げかけ続けたこの問いは、神学の中で神義論と呼ばれてきました。ヨブ記はその代表的な題材としてしばしば扱われます。
神義論という言葉自体は、比較的新しいものです。ライプニッツが1710年に用いた造語に由来し、ギリシア語のテオス(神)とディケー(義)を組み合わせています。善であり全能である神が造ったこの世界に、なぜ悪と苦難があるのかを問い、神の正しさを弁明する試みを指します。法廷で被告を弁護するような構図を持つ、近代ヨーロッパの神学的営みです。
※神義論については、過去の記事もご参照ください。
このように、神義論という用語自体は近年のものである一方で、神はなぜ苦しみを許されるのかという「問い」の方ははるかに古いものだと言えます。
ヨブ記の歴史的背景を扱った注解書に、ジョン・ウォルトン編『Zondervan Illustrated Bible Backgrounds Commentary』(未邦訳、以下ZIBBC)があります。そのヨブ記の項には、義人の苦難を扱った文書が古代の各地に存在したことが整理されています。以下はその解説によっています。
シュメール語の『人とその神』は紀元前二千年紀の初めにさかのぼり、敬虔な苦難者による長い独白の形をとります。「シュメールのヨブ」とも呼ばれる文書です。アッカド語の『ルドゥルル・ベル・ネーメキ』は、病に倒れ、周囲の人々から拒まれ、兄弟までが敵となった人物を描きます。「我は知恵の主を賛美する」という意味で、「バビロニアのヨブ」とも呼ばれます。この注解書が要約するところによれば、彼の困惑は、自分に善と思えることが神には不快であり、自分の心に忌まわしく見えることが神には善でありうる、という認識に行き着きます。ほかに『バビロニア神義論』、エジプトの『生活に疲れた者の魂との対話』などがあり、後者では苦しみの中で死を選ぶほうがよいのではないかという問いが立てられます。
これらはヨブ記を読むために必要な知識というわけではありませんが、ここからわかることもあります。それは、ヨブ記が扱う問いが、イスラエル外にも、そして古い時代からすでに存在していたということです。
同じ点について、本多峰子氏の論文「旧約聖書の神義論―ヨブ記と詩篇の場合」にも指摘があります。本多氏は、ヨブ記が申命記史家の応報思想への反論として新たに創作されたわけではないと注意を促し、説明のつかない苦難の存在は古来から問題として意識されていたことを、同種の資料を挙げて述べています。この論文は二松學舎大学の学術リポジトリで一般公開されています。
したがって、ヨブ記は、新しい問いを提示しているわけではありません。すでに数百年から千年以上にわたって人々が抱えてきた問いに、独自の仕方で取り組んだ書だと言えます。
ヨブの正しさという前提
ヨブ記を読む上で、最初に押さえておく必要のある点があります。それは、ヨブが正しい人であることは、読者が判断すべき論点ではなく、ヨブ記があらかじめ示している前提だということです。
1章1節で語り手は、ヨブのひととなりが「全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」者であったと述べます。1章8節では、神自身がサタンに向かってほぼ同じ言葉を繰り返します。2章3節では、財産と子どもを失った後になっても、神が三度目に同じ評価を述べます。さらに1章22節では災いの後もヨブが罪を犯さなかったことが、2章10節では病に倒れた後もヨブが「そのくちびるをもって罪を犯さなかった」こと、つまり言葉において罪を犯さなかったことが、語り手によって述べられます。
ヨブ記の中で最も権威のある二つの声、つまり語り手と神が、同じ評価を繰り返しています。フラー神学大学で旧約学を教えたレスリー・C・アレンは、2020年に東京神学大学で行った講演「ヨブと共に歩む」で、読者は冒頭の記述を、登場人物の語ることすべてを判定するための基準として受け取らなければならない、と述べます。ヨブについて知られるべき最も重要な事実がここに置かれており、以降のあらゆる発言はこれを踏まえて吟味される、という読み方です。
ただし、ここでの「正しさ」は、罪を犯したことがないという意味ではありません。ヨブは7章21節で、なぜ自分のとがをゆるさず不義を除いてくださらないのかと神に問います。『Cornerstone Biblical Commentary』シリーズでヨブ記を担当したオーガスト・コンケルの整理によれば、ヨブは自分に罪がないと主張したことが一度もなく、否定しているのは、自分の罪が苦しみの原因であるということです。問題は、ヨブが罪を犯していないことではなく、彼の苦しみに見合うだけの罪を犯していないことにあります。
そうすると、ヨブ記が示していることの一つが見えてきます。それは、神の前に正しくあることは、災いを免れさせるわけではない、ということです。信仰を持つ者が苦しみに遭うとき、その原因が信仰の不足や隠れた罪にあるとは限りません。
ここで一つ、行き過ぎた解釈にも注意が必要です。ヨブ記は、正しさと祝福の間に何の関係もないと述べているわけではありません。1章9-10節でサタンは、神がヨブとその家とすべての所有物のまわりに、くまなく囲いを巡らせて守ってきたではないかと指摘します。ヨブの敬虔と繁栄が結びついていた期間があったことを、ヨブ記は否定していません。神の守りが実際に働いていたことは、告発者の口を通して語られています。コンケルも、ヨブ記が行いと結果の結びつきを断ち切ってはいないと注意を促し、世界が道徳と無関係に動いていると考えることは神の摂理の否定に等しいと述べます。彼の見方では、道徳的な秩序は存在するものの、それは予測できるものではなく、有限な人間にはしばしば理解できないものです。
ヨブ記が退けるのは、この結びつきを逆向きにたどる読み方です。災いに遭っているのだから、その人に原因があるはずだ。そのように考えるのが、次に見る三人の友人たちです。
応報思想という当時の常識
ヨブのもとを訪れた三人の友人、エリファズ、ビルダデ(ビルダド)、ツォファルの発言は、現代の読者には冷たく感じられるかもしれません。なぜなら、苦しんでいるのだから罪があるはずだ、悔い改めれば回復する、と繰り返すからです。
しかし、彼らの主張は、独創的なものではありませんでした。申命記28章は、神の声に聞き従うなら祝福が臨み、聞き従わないなら呪いが臨むと述べます。祝福の記述に続いて、呪いの記述が延々と続きます。本多氏はこれを、ウェーバーに由来する「禍の神義論」という言葉で呼びます。人に降りかかる災いは、その人が意識的あるいは無意識的に犯した律法違反への罰である、という理解です。
もっとも、この理解には利点もありました。災いに理由があるのなら、神が理由もなく人を苦しめているわけではないことになります。世界は道徳的に筋が通っている、と考えることができます。
しかし問題は、このような考え方が苦しむ人にとってはどう理解されうるかということです。本多氏は、月本昭男氏の研究に依りながら、詩篇6篇、38篇、41篇に現れる「敵」を、病者を罪人として忌避し、その破滅を望む社会そのものの象徴的表現として読みます。41篇では、見舞いに来た者が心に悪意を満たし、外に出てそれを口にする様子が描かれます。重い病苦を呪いと決めつける社会の暴力性が、そこに照らし出されているという読み方です。
ヨブの友人たちは、この社会の縮図です。彼らの神学は理論上の誤りにとどまりません。苦しんでいる人をもう一度苦しめることになります。
そしてヨブ自身も、この枠組みから完全に自由なわけではありません。13章26節で彼は、神が自分に若い時の罪を負い続けさせていると述べます。応報の原理を保持しようとする限り、災いを受けている自分はどこかで罪を犯しているはずだ、と考えざるを得ないからです。
天上の場面が明かさないこと
ヨブ記の1章から2章には、天上の場面が描かれています。神の子たちが来て主の前に立ち、その中にはサタンもいます。神がヨブの正しさを挙げると、サタンは、ヨブがいたずらに神を恐れるだろうかと問い返します。神がヨブを守り、その働きを祝福してきたからこそ、ヨブは神を敬っているのではないか。所有物を奪ってみれば、ヨブは面と向かって神を呪うだろうと、申し立てます。
神は、ヨブの身に手を出さないことを条件として、その所有物をサタンの手に委ねます。財産は略奪され、子どもたちは家の倒壊によって死にます。それでもヨブは神を非難しませんでした。
2章で同じような場面が繰り返されます。サタンは、命さえ助かるなら人は何でも差し出すものだと述べ、ヨブの骨と肉を打つよう求めます。神は今度も、ヨブの命を助けることを条件に、その訴えを認めます。ヨブは足の裏から頭まで腫物に覆われ、灰の中に座ることになります。
ここで「サタン」と訳されている語について、補足をしておきます。ヘブル語ではこの語に定冠詞がついており、直訳すれば「その告発者」となります。固有名詞ではなく、天上の法廷における役割を指す言い方です。先のZIBBCによれば、この語が定冠詞なしの固有名詞として現れるのは第一歴代誌21章1節が最初で、ヨブ記やゼカリヤ書3章では神の会議の一員である告発者を指しています。新約聖書に現れる神の敵としてのサタンとは、同じ語でありながら位置づけが異なります。日本語訳では固有名詞のように見えますが、原文はそう読むことを求めていないと言えます。
この天上の場面が置かれているため、ヨブ記の読者はヨブよりも多くのことを知った状態でヨブ記を読み進めることになります。ヨブは、自分の身に何が起きたのかを最後まで知りません。その一方で、読者は1章と2章を読んだ時点で、災いに先立って天上で何があったのかを知ってるからです。
ただし、ここで二つの点に注意が必要です。
第一に、読者に明かされるのは経緯であって、理由ではないということです。神はサタンの申し出に同意しますが、なぜ同意したのかは語られません。しかも2章3節で神は、サタンに向かって、おまえがわたしを勧めてゆえなくヨブを滅ぼそうとした、と語ります。
この「ゆえなく」という語について、コンケルは、「勧めて」(他の訳では「唆す」「そそのかす」)ではなく「滅ぼそう」のほうにかかると解すべきだと述べます。
かかり方の違いは細かいようで、意味を大きく変えます。「滅ぼそう」にかかる読みでは、ヨブがそのような攻撃を受けるに値することを何もしていない、という意味になります。神がヨブの無実を証言していることになります。「勧めて」にかける読みでは、サタンがヨブを疑ったことに根拠がなかった、という意味になります。咎められているのはサタンの申し立てであって、ヨブが無実かどうかには触れていないことになります。コンケルが退けているのは、この後者の読みです。
日本語訳聖書の多くは、前者の読みに沿っています。口語訳は「わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとした」、新改訳2017は「わたしをそそのかして彼に敵対させ、理由もなく彼を呑み尽くそうとした」と訳しています。
例外が新共同訳で、「お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとした」と、唆す行為のほうに「理由もなく」をかけています。ただし新共同訳の後継にあたる聖書協会共同訳は、「私を唆し、理由なく彼を滅ぼそうとした」と訳しています。改訂を経て、他の訳と同じ読みに揃いました。
この読みを踏まえるならば、神自身がヨブの苦難に正当な原因がないことを認めていることになります。読者が天上の場面から得るものは、苦難の理由ではありません。理由が存在しないという事実の方です。
第二に、災いの場面そのものには天上の存在が一切現れません。ZIBBCは、1章13節から19節の四つの報告に神もサタンも登場しないことを指摘し、この不在が天上と地上を切り離し、物事がただ起こるという人間の経験を再現していると述べます。
災いの内容も、特別に超自然的なものではありません。コルネリウスの注解によれば、1章16節の「神の火」は落雷を指す可能性があり、17節の「カルデヤびと」は後の新バビロニア帝国ではなく、紀元前1000年の初めに隊商や町を襲った部族を指します。19節の大風は荒野の方から吹きつけるもので、砂漠から来る突風にあたります。ヨブを襲ったのは、当時のあの地域でありふれた自然災害と略奪だったと考えることができます。
そして、ヨブは最後まで苦しみの理由を知らされません。本多氏が紹介するA・S・ピークの言葉によれば、この書においてヨブが最後まで知らないままでいることは必至です。ヨブが学ぶべき教訓は、神の行為の理由が理解できなくても神を信頼しなければならない、ということだからです。
答えにならなかった神の言葉
31章の終わりで、ヨブは全能者の答えを要求します。そして38章1節、主が嵐の中からヨブに答えます。
ここはヨブ記全体の頂点です。沈黙していた神がついに口を開きます。読者は、ヨブが求め続けた説明がここで与えられるのだろうと期待します。
ところが神は、ヨブの問いに一言も触れません。語られるのは創造のみわざです。大地の基を据えたとき誰がそこにいたのか。海に境を定め、その高ぶる波をとどめたのは誰か。光の住む場所はどこか。雪と雹の倉に入ったことがあるか。すばるの鎖を結び、オリオン座の綱を解くことができるか。人のいない地、人のいない荒野に雨を降らせているのは誰か。続いて動物と鳥が並びます。獅子、烏、野やぎ、雌鹿、野ろば、野牛、だちょう、馬、鷹、鷲。そして40章以下に、二頭の大きな生き物が現れます。原語はベヘモットとレビヤタンで、口語訳聖書では「河馬」「わに」と訳されています。なぜこの二頭が最後に置かれているのかは、後編で扱います。
ヨブがなぜ苦しんだのかは、ここでは一度も語られていません。
コンケルはこの点について、神の応答が答えの形をとらず、創造者としての固有の視点をもたらすものになると述べています。彼はまた、神の二度の応答を経てもなお、ヨブが自分の個人的な事例については何も学ばなかったと明言します。
神義論の書として読まれてきたヨブ記が、神義論的な説明を与えていません。ここがこの書の最も扱いにくいところであり、同時に最も重要なところだと言えます。
ヨブ記が語らないこと
ここまで取り上げてきたことをまとめます。
ヨブが正しい人であることは、語り手と神によって繰り返し確定されています。それでもヨブに災いは臨みました。しかし、ヨブが苦しんだ理由は、ヨブ自身には明かされません。友人たちが呼ぶに語った説明は、結末部分で神によって退けられます。読者に明かされる天上での会議も、苦難の経緯を示すだけで、なぜ神がそれを許したのかは示しません。そして神ご自身が語られたときにも、理由が語られることはありませんでした。
苦しみには理由があり、人間はそれを知ることができる。私たちはそう考えがちです。ヨブ記が疑いを向けるのは、人間がその理由を知ることができる、という点です。理由が最後まで知られないまま終わることがある、という事例がここにあります。
そうすると、いくつかの問いが残ります。答えを与えないのだとすれば、38章以下の長い神の言葉は何のために置かれているのか。42章でヨブが失ったものを二倍にして受け取る結末は、試練に耐えた者への報いとして読んでよいのか。そしてヨブは、理由を知らないまま何を得たのか。
後編では、これらを順に見ていきたいと思います。
ぼくどくメモ
「こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。」(ヨブ記2:13、口語訳聖書)
友人たちは最初、「正しい」ことをしていました。しかし、彼らが誤った行動をとり始めたのは、口を開いてからです。
牧師として、語るべき言葉が見当たらないまま、人と向かい合うことがあります。事情を聞き、何か意味のあることを言わなければならないと感じながらも、ふさわしい言葉が出てこない。そういうとき、何か言わなくてはと、もっともらしいことを口にしたくなることがあったりします。神はこの出来事を通してあなたに何かを教えようとしておられる、といった類の言葉です。
しかしそのような言葉は、多くの場合、語る側の落ち着かなさを収めるために出てくるものなのだと思わされます。沈黙に耐えられないのは、苦しんでいる人ではなく、そばにいる自分の方です。
ヨブ記の友人たちが失敗したのは、間違った神学を持っていたからだけではありません。答えを持っていなければならないと考えたからです。七日間、彼らは何も持たずにそこにいました。その七日間を、誰も非難していません。
参考文献
- Izak Cornelius, Job, in John H. Walton ed., Zondervan Illustrated Bible Backgrounds Commentary: Old Testament, vol. 5, Zondervan, 2009
- August H. Konkel, Job, in Cornerstone Biblical Commentary, vol. 6, Tyndale House, 2006
- レスリー・C・アレン(1936-2025)「ヨブと共に歩む」川嶋章弘訳(2020年2月4日、東京神学大学における講演原稿)
- 本多峰子「旧約聖書の神義論―ヨブ記と詩篇の場合」『国際政経論集』第17号、二松學舎大学、2011年(二松學舎大学学術リポジトリで公開)
本記事において取り上げた古代近東の文書は、英語ではそれぞれ次のように呼ばれています。『人とその神』はMan and His God、『ルドゥルル・ベル・ネーメキ』はLudlul bēl nēmeqi、『バビロニア神義論』はBabylonian Theodicy、『生活に疲れた者の魂との対話』はDialogue of a Man with His Baなどです。エジプトの文書については、Dispute between a Man and His Baのように、研究者によって異なる呼び方がされています。
