2013年に、スコット・マクナイト”The King Jesus Gospel: The Original Good News Revisited”(中村佐知訳『福音の再発見』キリスト新聞社)が邦訳されて以来、日本のキリスト教会では「福音」について、従来の一般的な理解が見直されつつあります。原著は2011年なので、比較的早くに翻訳されたことがわかります。それに関連する書籍としては、N. T. ライト”Simply Good News: Why The Gospel Is News And What Makes It Good”(山﨑ランサム和彦訳『シンプリー・グッドニュース』あめんどう)などが邦訳出版されています(2020年)。
詳しくは実際に読んでいただきたいと思いますが、少なくともこのような「福音」理解は、今後のキリスト教会におけるスタンダードになるのではないかと思われます。もちろん、スタンダードというのは、あくまでも「標準」であって、完全に正しいということではありません。ですので、上記の書籍の内容に対する反論を持っている方もおられるでしょう。それはそれで、議論が深まる上で必要なことです。ですが時々、このような新しい見方は全て間違っていると、頭ごなしに否定する意見も散見されるように感じます。しかし、これらの福音理解を完全に否定することは不可能ではないかと思います。
それはさておき、中でも従来の福音理解と異なる点は「十字架」に関するものではないかと思います。これまでの福音というのは、「十字架」と深く関係するものだったと言えます。例えば、「福音とは、キリストが私たちの罪のために死なれたこと」だと言われても、多くの場合、違和感を感じることは少ないのではないかと思います。しかし、イエスが語る福音には、(極端に言うと)「十字架」は含まれていない、というのがこれまでとは違う点だと言えます。
これにはもう少し説明が必要です。福音とは、まさに「良い知らせ」と言われるように「ニュース」です。それは、新しい王が誕生したという知らせです。ここで十字架がどうの、というのは前面には出てきません。なぜかと言いますと、イエスは公生涯においてすでに「福音」という言葉を使っているからです。イエスの宣教活動は「福音」を伝えることに他なりませんが、それは十字架について語ることではありません。福音書に記されていることは、人々の病を癒したり、悪霊を追い払ったり、罪を赦すということです。しかし、このようなイエスの活動を見た人々(律法学者など)は、イエスが神を冒涜していると批判しています。それはすなわち、イエスが権威ある者として、行動されたということを意味します。つまり、イエスはご自身が父なる神から権威を与えられた「王」であることを示されたということです。
このようなことを踏まえるなら、イエスが公生涯においてすでに「福音」を語ることができたことに納得がいくのではないかと思います。十字架については語らずとも、新しい王として、人々に新しい生き方の指針を示されたこと、まことの王の到来こそが福音であったということです。しかし、福音と十字架は無関係ではありません。確かに、「福音」そのものは十字架については語っていないかもしれません。ですが、福音が告げる王が十字架にかかられたということは、大きな意味を持ちます。つまり、イエスというまことの王は、罪人のために十字架で死なれるほどに、ご自身を人に与えるしもべなる王であったということです。
このような意味で、福音はしもべなる王の到来を告げるものでもありますので、十字架と無関係ではないということです。しかし、福音そのものは、あくまでも新しい王の到来を告げる「ニュース」ですので、その点では、十字架が含まれていないということです。
福音理解について見直すことは、宣教の働きや活き活きとした信仰生活にも関わってくるものだと思いますので、それを間に受けるかは置いておいても、とても有益なことではないかと思います。また、今後はそのような福音理解が前提の書籍なども多数出ると思いますので、決して昨今の潮流を踏まえることは無駄になることはないだろうと思います。
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