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マタイの福音書6章9節における「神的受動態」に関する考察

I. 「御名をあがめさせたまえ」の神学的意義

A. 「主の祈り」の構造

マタイの福音書6章9節から始まる主の祈りは、イエスが山上の説教(マタイ5-7章)の中で、弟子たちに教えた神の民としての信仰生活と倫理的実践の核心に位置づけられる模範的な祈りとして広く知られています。この祈りは、数多の研究がこれまでなされてきたことからも明らかなように、単なる祈りの言葉ではなく、深い神学的意義が込められていると考えられます。

主の祈りの構造は、一般的に、その祈り(願い)の対象に基づき、前半と後半に区分されています。前半(マタイ6:9-10)は「神のための願い」であり、それはすなわち、神の御名、御国、御心に関するものです。後半(マタイ6:11-13)は「人間のための願い」であり、日々の糧、罪の赦し、試みからの救出を求めるものです。

このような前半と後半の構造的な対照性は、ギリシア語の文法の違いによっても裏付けられます。前半部の三つの願いのうち二つ(「御名をあがめさせたまえ」「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」)は、受動態(Passive)の動詞形式が用いられ、残る一つ(「御国を来らせたまえ」)は能動態(Active)となっています。これとは対照的に、後半部の願いはすべて能動態の動詞形式となっています。この前半と後半における「受動態」の顕著な使用(前半三つのうち一つは能動態という例外はありますが)は、前半部の実行主体が人間ではなく、「神」ご自身であることを暗示しており、今回取り上げる「神的受動態(Divine Passive)」に関する議論の決定的な土台を形成しています。

B. 文法

問題の核心となるマタイ6章9節後半の「御名をあがめさせたまえ」(新改訳2017「御名が聖なるものとされますように」)は、ギリシア語原文(NA28など)では「ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου·」であり、ここで「あがめさせたまえ(聖なるものとされますように)」と訳されている「ἁγιασθήτω」は、動詞「ἁγιάζω(ハギアゾー:聖別する)」の三人称単数・アオリスト・受動態・命令法となっています。

「命令法」というのは、人称が一人称または二人称になるというのが、日本語話者にとっては一般的だと思いますが、ギリシア語文法には、不思議なことに「3人称」の命令法が存在します。ですので、この時点で、すでにわかりづらいわけですけれども、3人称・命令法については、下記のように説明されています。

3人称への勧告を表すもの
 厳密に言うなら、英 “Let him …” のように2人称を介して間接的に命じるのではなく、直接3人称に対する話者の意志を表現するが、命令される当人が眼前にいるわけではないから、2人称への命令とはややニュアンスを異にする。
[中略]
Μηδείς σου τῆς νεότητος καταφρονείτω,
若年のゆえをもってあなたを軽んじることは何びとにも(この私が)許さない。(1テモ4:12a)
—「軽んじられないよう」自ら注意していよ、というテモテへの命令ではなく、テモテを軽んじようとする人たちへの使徒パウロの強い”No!”と考える方がよい(12bの文脈からテモテへの注意も二義的には含まれようが)。

織田昭『新約聖書のギリシア語文法』(教友社、2003年)、592頁

3人称命令法とは「(彼/彼女/彼ら)に〜させよ」という表現を指します。これは3人称の対象に対して、何らかのすべきことを要請する表現方法であり、3人称の対象がしたいことを許可する表現法ではないことに注意しましょう。
ex. ローマ6.12
Μὴ οὖν βασιλευέτω ἡ ἁμαρτία ἐν τῷ θνητῷ ὑμῶν σώματι.
だから罪にあなた方の死ぬべき体を支配させてはならない。

ジェレミー・ダフ、浅野淳博訳『エレメンツ 新約聖書ギリシャ語教本 増補改訂版』(新教出版社、2016年)、166頁

しかしながら、ここで参照した説明は、あくまでも文法上の基本的な説明であり、マタイ6:9の解釈を説明したものではあありません。なので、参考として引用しました。

今回はこの命令法よりも、受動態であることに着目したいと思います。

このところは、一般的に「神的受動態」として解釈されることが多いのですが、ギリシア語の文法書にはあまり記述されていないようです。実際、いくつかの基礎的な文法書を確認しましたが、文法としての「神的受動態」について言及しているものは見つけられませんでした(ざっと見ただけですので、あるのかもしれません。もちろん、言及している文法書も洋書ですがあります(“Going Deeper with New Testament Greek:An Intermediate Study of the Grammar and Syntax of the New Testament, p197)。

C. 「主の祈り」における「御名をあがめさせたまえ」の位置付け

主の祈りの請願は、「神」から「人間」へと移行していく構成になっていますが、特に第一の願いである「御名が聖なるものとされますように」は、神ご自身の本質である聖性に直接関わっているという点で、重要だと言えます。また、これはキリスト教信仰の根本的な姿勢を表明しているとも考えられます。この祈りを通じて、弟子は後半部に続く自己の要求を述べる前に、まず神への畏敬を確立することが求められるということです。これは、弟子としての歩みの上で重要な、神の聖性を認める基本姿勢を要求するものであるとも言えます。

II. 神的受動態(Divine Passive)の定義、文法、および歴史的根拠

A. 「神的受動態」とは

それでは、「神的受動態(Divine Passive)」とはどのように定義されるでしょうか。 Douglas Mangumは簡潔に定義しています。

divine passive — A verb that is grammatically passive and that has God as the implied agent.

Douglas Mangum, The Lexham Glossary of Theology (Bellingham, WA: Lexham Press, 2014).

つまり、受動態の動詞が使用されているにもかかわらず、文脈上、その行為または効果を生み出す行為主体が非明示的でありながらも暗黙的に神であることを示すものだと言えます。

その一例として、例えば、新約聖書において、信仰者が聖なるものとされた状態を描写する際、ヘブル人への手紙10章10節ではこのように言われています。

この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。

ἐν ᾧ θελήματι ἡγιασμένοι ἐσμὲν διὰ τῆς προσφορᾶς τοῦ σώματος Ἰησοῦ Χριστοῦ ἐφάπαξ.(NA28)

ヘブル人への手紙10章10節(口語訳聖書)

ここでいわゆる「聖化」という行為の究極的な主体が神であるということは文脈上明らかです。

マタイ6章9節の「ἁγιασθήτω」は受動態であるため、単純に読めば「(誰かによって)聖なるものとされる」となります。しかし、神の御名は、聖である神の存在そのものを指し、人間がその本質を聖化することは不可能です。したがって、この請願の真の行為主体は、神ご自身であると解釈されます。ですので、補足するなら、「神よ、御自身によって御名を聖なるものとさせてください」と解釈できます。

B. ユダヤ的背景:畏敬の念による婉曲表現

神的受動態の概念は、単なるギリシアg語の文法的な技巧に留まらず、イエスと同時代およびそれ以前のユダヤ教における深い神学的な伝統に由来するとも考えられています。ユダヤ人の中では、神の聖なる御名(YHWH)をみだりに口にすることを避けるという畏敬の慣習があったことは広く知られているところです。

この慣習の結果、彼らは神の直接的な行為を指し示す際、神の名前を避けるための婉曲表現を多用しました。「天」や「御名」を神を表すものとして使用したり、あるいは能動態の代わりに受動態を使用することが、その典型的な方法でした。受動態を用いることで、行為者(神)を直接明示しなくても、行為が神によってなされたことを暗に示し、神の聖性を尊重したと理解できます。

C. マタイ福音書における神学

また、マタイ福音書の神学に着目することも重要かもしれません。『マタイ』は、特にユダヤ的背景を持つ読者を強く意識して書かれていると考えられていますが、イエスが教えた祈りの形式が、当時のユダヤ教の神理解を忠実に継承していることを証明しています。

マタイ6章9節の「ἁγιασθήτω」が神的受動態として理解されるのは、イエスがアラム語(またはヘブライ語)で伝えた祈りの形式を、ギリシア語圏の読者にも通じる形で、神の超越性を保持したまま翻訳する最も適切な手段であったと考えられます。この用法は、キリスト教の祈りが、神との親密な関係性(「われらの父よ」)を強調しつつも、同時に神の絶対的な聖性と超越性(御名の聖化)の両方を調和していることを示しています。したがって、この文法は、単なるスタイルではなく、マタイ神学の中核をなす要素とも言えそうです。

III. 神的受動態に基づく解釈

A. 祈りの主体性:神の主権の強調

神的受動態の解釈が導く第一の神学的帰結は、神の主権を認めることにあります。主の祈りの前半部は、人間の努力や意志が先行するのではなく、神ご自身の主権的な行為によってのみ実現される事柄を求めています。

これらは、神の御名が聖とされるように、神がその力を介入させることを求める、まさに神の主権を認めた上で成り立つ請願です。J. I. Packerの指摘によれば、、キリスト教における祈りの根本は、人間の無力さの認識と、全能の神への徹底的な依存の告白に基づいています。
参照:Divine Sovereignty and Human Responsibility- J. I. Packer
https://www.hopefaithprayer.com/salvationnew/divine-sovereignty-and-human-responsibility-j-i-packer/

祈りとは、神の御手を無理に動かそうとする試みではなく、自らの無力さを認め、すべての良きものが神の贈り物としてのみ来ると謙虚に認めることです。神的受動態は、この人間の無力性と神の主権への依存を、文法的なレベルで体系的に体現していると言えます。

B. 恩恵の順序としての受動態

一方で、神的受動態については懸念もあります。

神的受動態の強調は、もし誤って解釈された場合、「神はすべてを行うのだから、人間の努力は不要である」という、いわば運命論を招き、信仰者にある種の諦めを生じさせる可能性があります。しかし、正統的な解釈では、これとは反対の神学的な順序が示唆されています。

この受動態とは、人間の努力が神の恩恵に先行するのではなく、神の主権的行為がまず先立ち、その結果として人間の積極的な信仰と倫理的な応答が初めて可能になるという順序を確立するものです。祈る者は、神の主権的な聖化を認めることで、自己中心的な祈りから解放され、神の御国を促進する積極的な参与者へと変容していくと言えるでしょう。

IV. 人間の参与

また、「主の祈り」は、イエスが宣言した神の王国が既に始まっているが、まだ完全に到来していないという終末論的な文脈の中で理解されることもあります。この視点では、祈りの第一の願いは、神の主権的行為と人間の信仰的応答を対立させる「どちらか一方」の論理は取りません。

確かに、ここまで見てきましたように、「ἁγιασθήτω」は神の行為を強調する神的受動態と解釈できますが、神の行為は人間の参与を排除するわけではありません。神の御名が聖とされるようにという願いは、神の主権的な聖化を求める一方で、弟子たちが山上の説教で教えられた倫理に従って生きることで、その聖化のプロセスに積極的に参与するよう招いていることも事実です。弟子たちが世において偽善的な行動(マタイ6:1-8)を避け、神の聖性を尊重する生活を送るとき、彼ら自身が神の聖性が顕現する場となり、その請願の成就が促されるとも言えます。

主の祈りの前半部の主体が神であることは、冒頭でも確認した通りです。確かに、受動態と能動態の違いは見られますが、主体が神であることは文法上明白でしょう。

しかし、それら一つ一つの行動の主体は神でありながらも、それに人間も参与するようにと招かれているとも言えます。例えば、「御国を来らせたまえ」は、御国を到来させる究極的な主体は神の他にはあり得ませんが、そのための務めを与えられているのが信仰者でもあります。ウォルタースはこのように指摘しています。

しかし、また、イエスは弟子たちに、「御国が来ますように」と祈るようにともお教えになり、御国の到来が、まだ完全な実現を見ていないことをお示しになりました。『すでに』と『いまだ』の両面がキリストの初臨(地上のご生涯)と再臨の中間時代を特徴づけています。初臨は被造世界への足がかりを作るものでした。また、再臨はご自身の主権的ご支配の完全な勝利を告げるものです。その間、キリストの僕たちは、あらゆる所で、その主権的ご支配を尊び、それに服するよう召されています。『天と地の一切の権能』は今やこの方に与えられているからです(マタイ28:18)。イエスは、昇天後も、御国を来らせるその働きに従事しておられますが、今は、聖霊によって力を与えられた弟子たちの働きを通してこのことをなされます。ムナのたとえ(ルカ19:11-27)の意味はここにあります。このたとえにおいて身分の高い人の僕たちは、主人が王位を受けて帰ってくるまで、任された仕事を忠実に果たすよう求められています。同じように、すでに到来した御国の僕たちは、もっているいっさいのものを活用して、まだ来ていない御国の促進をはかるのです。

A.M.ウォルタース、宮﨑彌男訳「増補改訂版 キリスト者の世界観:創造の回復」(教文館、2018年)、119-120頁

このように、神的受動態と解釈したとしても、そこに人間が参与しないということにはならないでしょう。したがって、主の祈りの前半三つの請願は、文法的な差異(受動態/能動態)を超越し、すべて神の主権的行為の実現を求めるという、統一された神学的な意図を持っている一方で、そこには人間の参与する余地が残されていると考えられます。

V. まとめ

ここまで、マタイ6:9における「御名をあがめさせたまえ」を、「神的受動態」という文法上の解釈から考察してきました。その背景には、神の主権や神への畏敬などが込められていることを確認しました。ですが、この祈りにおける行動主体が神である一方で、その働きに参与するようにと招かれているのが人間でもあります。

このように、ここにはある種の緊張関係があります。それはつまり、神の行為(主権)と人間の参与(責任)の問題です。

しかし、それらは統合できるだろうと思われます。要するに、順序の問題だということです。人間が神の働きに参与するのは、神の主権のもとであることを弁えるなら、そのことは自明のことではないでしょうか。つまり、神の聖化(神側の行為)が根本であり、弟子の倫理的な実践(人間側の応答)は、その神の聖化がこの地上で具体的に現れるための手段として機能するということです。この関係性は、神の恩恵(Grace)と人間の信仰(Faith)の関係性を反映しており、神の主権的な働きを前提としない人間の「聖化」の努力は意味がない、というか成り立たないということです。

このように、神的受動態は、神の行為を最優先するという点で、祈りの本質に関する教理的な明確さを提供しています。神の主権を認める祈りは、人間の行動を無意味にするものではなく、むしろ人間の応答(神の働きへの参与)を可能にする前提条件だと言えます。

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