待降節はまさに「待つ」ことについて考える期節です。
「待つ」ということには、忍耐が伴います。むしろ、忍耐が不要な「待つ」ことはあり得ないとさえ言えます。忍耐が求められるからこそ、「待つ」ということになるのだと思います。
現代に生きる信仰者にとって、待降節には、二つの意味で「待つ」ことを教えています。一つは、キリストの誕生を待ち望んでいた当時の人たちの追体験をするということです。当時の人々に思いを馳せながら、どのような状況で、どのような気持ちで主イエスの誕生を待ち望んでいたのかを考えます。そして、もう一つは、再び来られる主の到来を待ち望むということです。
キリスト教会は、この2000年間、再び来られると約束された主の到来を待ち続けています(この「到来」の意味については、昨今さまざまな指摘がなされていますので、後日取り上げたいと思います)。
待つということは、このような大きな枠組みの中で考えられるものであると認識するなら、そこで問われてくるのは、どのように待つのか、という私たちの姿勢だと言えます。それはすなわち、何もしないでじっとしていることではなく、再び来られる主を迎えるために積極的に待つということです。
主の再臨の約束を受け取った弟子たちは、その後どうしたかと言えば、閉じこもるのではなく、世界に出ていきました。これは、まさに「待つ」ことの姿勢を表しています。待つということは、行動することでもあるのです。
そこで思い出されるのが、いわゆる「大宣教命令」として知られているマタイの福音書の最後の部分です。
18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
マタイによる福音書28章18-20節(口語訳聖書)
十字架の死と復活、そして昇天によって、「いっさいの権威」が授けられた御子イエスによって、弟子たちに与えられた命令とは、端的に言えば、まさに主イエスに倣って生きるということに他なりません。そして、そのことを伝えるということです。
このことは、言い換えるなら、主イエスは弟子たちに「待ち方」を教えられたと言えるのではないかと思います。再臨の主はいつ来られるのかと手をこまねいているのではなく、教えられた生き方を実践していくことこそが積極的に待つということになるのではないでしょうか。
繰り返しになりますが、待つことには忍耐が伴います。もし、ただ「待ちなさい」と言われたとしたら、誰もが「そんな理不尽な」「そんな無茶な」と感じるのではないかと思います。しかし、主イエスご自身が、忍耐をもって歩まれたその生涯が、どのように待つべきかの何よりの模範であると言えます。それゆえに、待ちきれないと感じる時は、その歩みに立ち返り、そこから教えられ、また学ぶことができるように思います。
