AIに説教はできるのか?その可能性と限界

AIに説教はできるのか?その可能性と限界 Homiletics
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Chat GPTが2022年11月に登場して以来、急速に普及したAIの性能の高さに驚いています。Logos Bible Softwareがサブスクリプションサービスを開始した際も、目玉となったのはAIによる機能を駆使したものでした。

また、AIの発達により、教会で語られる説教についても、何かしらの影響があるのではないかということが、近年議論されてきました。実際、AIを活用した説教というのはすでに広くなされているのかもしれません。

AIと説教について考える際に、そもそも「説教」とは何か、という問題があるかと思います。説教というのは、表面的な説明をするならば、礼拝の中で牧師が語る聖書のお話だと言えます。しかし、突き詰めていけば、それは聖書のことばであり、神が語ることばであり、神からのメッセージであるとも言えます。

とは言え、人間の牧師が語る以上、神のことばと人間のことばがどのように両立するのか、という問題が生じます。

このことについては、また別の大きな問題ですので、またいつか。今回取り上げたいことは、AIに説教を語ることはできるのか、ということです。

説教は聖書の解説?

もしも説教を単なる聖書の解説と考えるなら、AIにもその役割を十分に果たすことができると思います。なぜなら、説教を準備する説教者もまた、聖書を読むだけではなく、注解書や辞書など、様々な文献から学んでいるからです。しかし、知識の量で比べるならば、AIの方が圧倒的に膨大な資料にアクセスすることが可能です。その一方で、人間にできることは、限られた時間で、限られた資料にあたることだけです。

ですので、聖書を単に解説するだけなら、AIの方が人間をはるかに凌駕するように思います。ですが、説教はただ聖書を解説することではありません。もしそうであるなら、それぞれが本を読むなり、自分で学べば事足りるでしょう。

人が語る説教

説教は語られてこそ意味があると考えます。それでは、AIが音声を発すればいいのかと言えば、そうでもありません。その語りに必要なのは、人格としての人間です。

以前、教会に初めて来られた方と話した時に、「良いお話は誰だってできます。本を読めば、良い言葉はたくさん書いてありますもんね」と言われました。お坊さんにしろ、牧師にしろ、どこからでも「良い話」は拾ってくることができます。その方は、そのことを見抜いておられました。私もその意見に深く同意します。確かに「良い話」をしようと思えば、いくらでもどこからでも拾ってくることができます。AIにも、人間にも。

しかし、そこで大事なことは、それを語っている人間の人格です。それがただの「情報」として語られることとその人の人格のうちに語られることとでは、大きく違ってくるのではないでしょうか。

たとえば、AIが「隣人を愛しなさい」と言ったところで、AIには人を愛することはできません。ですので、その言葉は、表面的な「情報」となってしまうように思います。一方で、人間が語るならば、その人の生き様が関わってきます。もしもその人が、全く隣人を愛していないのに、そのことばを発しているなら、何も響きません。しかし、その語る人自らが実践しているなら、そのことばの重みは全く違うものになります。

不完全な人間だからこそできる説教

もちろん、説教を語る者がそれを実践していると言っても、完全に実行しているとは言えないことの方が多いと思います。むしろ、完全に実行している人の話というのは、それが悪いと言いたいわけではありませんが、少しついていけないように感じるのではないでしょうか。目の前に完璧な人がいると、自分の不甲斐なさが際立ってしまうのです。自分がどこか責められているような気になります。

しかし、もちろん説教を語る者がそのような完璧な人間であるということはありません。一人の人間であり、欠点もあります。それでも、そこで求められている態度は、みことばを実践しようとすることです。苦しみ、もがきながらも、みことばに立ち、みことばに生きようとする姿です。その姿に、聞く者もどこか励まされ、慰められるのではないでしょうか。

説教を語る者もまさにそのような姿を、聖書を読みながら、主イエスや使徒たちの姿に見、教えられるのだと思います。

そして、このようなことは、いくらAIが膨大な情報量で聖書を解説しても、伝わってこないものだと思います。どれだけ神のことばを聞いたとしても、それが聴く者の命を生かし、日々の生活に活かされなければ、ただの知識であり、生き方を変えるほどの力はそこには生まれないのではないでしょうか。

ことばと行動の一致

結局、語る者が語っていることばを実践しているか、つまり言行一致しているかが、最も重要なことであるように思います。たしかに、AIの知識は人間とは比べ物になりません。しかし、ことばだけでは不十分です。実際に、そのことばに説教を語る者が生きようとしていないならば、説教が果たすべき役目が十分に果たされたとは言えません。言い方を変えれば、説教を語る者もまた、語ることに満足してはいけないということです。語ったことばに、自らも生きること。ことばと行動の両輪によって、説教は語られるものだと思います。

語ることと生き方が一致していることの大事さについては、『ヤコブの手紙』がよく書き表しています。この手紙の著者だと考えられる主イエスの兄弟ヤコブは、エルサレム教会のリーダーです。あれだけ律法にうるさいユダヤ人たちの教会のリーダーを務めるということは、それなりに人々から一目置かれていたということは容易に想像がつきます。それほどまでに、ヤコブは語ることと生き方が乖離していなかったということです。

ここでヤコブ書の中でも有名なくだりを引用します。

20ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。 

21わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。 

22あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、 

23こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。 

24これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

ヤコブの手紙2章20-24節(口語訳聖書)

信仰はそれだけでは意味がなく、行いも伴ってこそ完成されるのです。

ことばが肉となったイエス

それでは、何がここまでヤコブを変えたのでしょうか。それは、まさに兄イエスの生き様だったのではないでしょうか。

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

ヨハネによる福音書 1:14(口語訳聖書)

ヤコブは兄イエスが生きている間に、劇的な変化があったのではないだろうと思われます。というのも、生前は、イエスの活動にイエスの家族は否定的だったからです(マルコ3章参照)。それでも、兄イエスと生活を共にしたヤコブなら、その生き様の意味が、イエスの死後、よく理解できたのではないでしょうか。ただ父なる神のことばを語るだけではなく、そのことばがイエスの血肉となり、生き方を通して表されていたこと、そのことを見た者たちは、その生き様から神のことばを受け取ったのではないかと思います。

【結論】

AIに説教はできるのか、と聞かれれば、それはできないでしょう、というのが今回の結論です。なぜなら、ここまで見たきたように、ただの情報、単なることばでは、伝わるものも伝わらないからです。説教がただ聖書を語ること、聖書の解説であるならば、それはそれぞれが聖書を読んだり、勉強したりすれば事足ります。自分で読んでもわからないことがあるから、説教を聞くという意見もあるかもしれません。しかし、それを言ってしまうと、説教者にもわからないことがありますので、その場合はどうしたらよいのか、という問題が生じます。

説教というのは、説教者が高いところから語るものではありません。神のことばにもがき苦しみながらも聞き、そして生きようとする者によって語られるものです。もちろん、その背後には、説教者が神を求め、神のことばを受け取るプロセスがあり、また神が説教者を通して語るという側面もあると思います。

いずれにしても、AIが神のことばを求めたり、神のことばに生きようとすることがない以上、説教を語ることはできないでしょう。

ただ、AIを活用することは、また別の話だと思います。AIを用いて、説教を準備するための勉強をすることは、説教を語る者にも開かれていることであるように思います。そのような意味では、Logosが積極的にAIを活用してきているのは、時代の流れであるように感じました。今後、そのような取り組みを追随するところが出てくるのか、見守りたいと思います。

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