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人間は成長しているのか? ―不変の真理と、受ける側の成熟―

1. 時代を超えた「問い」

「人間はこれまでの歴史の中で成長しているのだろうか」という素朴な問いがあります。 21世紀の現代においても『聖書』という大古の書物を手に取る人が絶えないのはなぜでしょうか。普通に考えれば不思議なことですが、そこには時代を超え、現代人の心にも深く響く「真理」があるからではないかと思わされます。

2. 受け取る側の「成熟」という進展

いつの時代も、聖書の解釈をめぐって対立や対話が繰り返されてきました。聖書が「神の主権」によって記された一貫した教えであるとするならば、変化しているのは神の側ではなく、それを受け取る「人間」や「社会」の側ではないでしょうか。

たとえば、幼い子供は「門限」や「家庭のルール」の真意を理解できず、ただ盲目的に従います。しかし大人になれば、そのルールの背後にあった親の愛情や願いを汲み取れるようになります。 神の教えも同様です。人類が歴史を重ねる中で、当初はシンプルな戒めとして受け取っていた言葉の「真意」を、より深く、多角的に理解できるようになってきた。その「理解度の深化」こそが、人間の成長と言えるのかもしれません。

3. 「真理」という汲み尽くせない豊かさ

「本質が変わらないのに、なぜ多様な解釈が生まれるのか」という問いに対し、私は「真理が豊かすぎるから」と答えたいと思います。 人間は、聖書のメッセージを完全に理解し尽くすことはできません。どれほど優れた解釈であっても、それが真理の「すべて」ではないのです。だからこそ、何千年もの間「神学」という営みは続き、これからも終わることはありません。

昨今の神学的対立を見ていると、時に「誰が正解(真理)を知っているか」という優劣の競い合いのように見えることがあります。しかし、真理が不変であるとしても、それを受け取る人間の理解力によって見え方は変わります。 「我こそが真理に立っている」という主張は、一面的な見方に過ぎません。人間の成長という視点を欠いては、真理の全体像を捉えることはできないのです。
参照:神学的な理解が正しいことはどれくらい重要か?

4. 生きている真理

イエスは「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われました。真理とは固定化された教条ではなく、常に新しく、より深く理解される可能性を秘めた「生きもの」です。 誰かとの関係において「私はあなたのすべてを理解した」と言うのが傲慢であるように、真理を理解することにも終わりはありません。

これは教義や信仰告白を軽視することではありません。子供が親の思いを理解できるようになったからといって、子供の権威が親を上回るわけではないのと同様です。教えを深く汲み取れるようになることは、人間の知性が教えを上回ることではなく、ただ「教えを理解できるほどに人間が成熟した」ことを意味するのです。

5. 知識の「蓄積」と、知恵の「体得」

ここで本題に戻ります。果たして人間は成長しているのでしょうか。 ここで重要なのは、「社会(全体)」と「個人」を切り分けて考えることです。

社会全体の「知識」や「テクノロジー」は、紛れもなく進歩しています。しかし、人間が抱える孤独、嫉妬、愛への渇望といった内面的な課題は、数千年前から驚くほど変わっていません。

  • 科学(知識): ニュートンの発見の上にアインシュタインが乗り、私たちはその成果をスマホとして手にする。これは「積み上げ」が可能な蓄積です。
  • 人間性(知恵): 2000年前の人が経験した「赦しの難しさ」を、現代の私たちも一人ひとりがゼロから、自分の人生で追体験し、獲得しなければなりません。

人類全体の「蓄積」はあっても、個々の人間が成熟するプロセスは、今も昔も変わらない普遍的な課題なのです。

6. 社会としての「適用範囲」の広がり

一方で、個人の内面は変わらなくとも、「神の教えを社会にどう反映させるか」という仕組みの面では、人類は試行錯誤を経て成熟してきました。 例えば「自分にしてほしいことを人にもせよ」という黄金律。かつては自分の部族内だけで守ればよかったこの教えを、現代では国境や人種を超えて地球規模でどう適用すべきか、私たちは(未熟ながらも)議論しています。この「適用範囲を広げようとする努力」にこそ、人類の歩みの重みがあるのではないでしょうか。

結論:成長とは「深まること」

結局のところ、人間は成長しているのでしょうか。 私は「成長」の定義を「右肩上がりの発展」ではなく、「不変の真理により深く根を張ること」と捉え直したいと思います。

私たち現代人は過去の人々より賢いわけではありません。しかし、先人たちの膨大な「失敗と試行錯誤の歴史」という鏡を持っている分、自分たちの未熟さをより多角的に照らし出すことができます。 人間はある面では成長し、ある面では変わらず未熟なままです。しかし、その変わらぬ未熟さを自覚することこそが、神の教えを「自分事」として捉え、真理へと一歩踏み出すための、最も大切なスタート地点になるのではないかと思われます。

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