非常によく知られているイエスの言葉の一つにこのようなものがあります。

わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。

ヨハネによる福音書8章12節(口語訳聖書)

「光」という言葉のイメージは、時に曖昧で、漠然としたものです。しかし、この言葉は、単なる比喩や抽象的な表現ではありません。実は、この宣言がなされた「時」と「場所」には、非常に劇的な背景がありました。それはユダヤ教の三大祭りの一つ、「仮庵(かりいお)の祭り」における「光の儀式」です。(参照:「仮庵の祭り」と「生ける水」

今回は、この背景を知ることで、イエスの言葉の衝撃とその深みを味わってみたいと思います。

1. 「光の儀式」

仮庵の祭りは、その名が示す通り、イスラエルの民が荒野を旅した時代、神が彼らを守り導かれたことを記念する祭りです。7章では「水」の儀式が注目されましたが、もう一つ、祭りの夜を彩る重要なイベントがありました。それが「光の儀式」です。

新約聖書学者のゲイリー・バージ(Gary M. Burge)は、当時の文献(ミシュナ)に基づき、その様子を次のように活き活きと描写しています。

The Mishnah chapter on Tabernacles (Sukkah) provides lavish descriptions of both the water and light ceremonies … Four large stands each held four golden bowls; these were placed in the heavily-used Court of the Women.3 These sixteen golden bowls (reached by ladders) were filled with oil and used the worn undergarments of the priests for wicks (m. Sukkah 5). When they were lit at night (so the rabbis said), all Jerusalem was illumined.
3 To recreate this setting, readers would do well to review the layout of Herod’s temple. The Court of the Women was the first elevated court restricted to Jews only and was east of the Court of Israel (or Men).
[拙訳]ミシュナの『仮庵(スッカ)』の章には、水と光の儀式についての豪華な記述があります……。4つの巨大な燭台にはそれぞれ4つの金のボウルがあり、これらは多くの人が行き交う「婦人の庭(Court of the Women)」に設置されていました。これら16個の金のボウル(はしごを使って届く高さ)には油が満たされ、祭司たちの使い古した下着が芯として使われました。夜にこれらが点火されると(ラビたちが言うには)、エルサレム中が照らし出されたのです。

Gary M. Burge, John, The NIV Application Commentary (Grand Rapids, MI: Zondervan Publishing House, 2000), 255.

当時のエルサレムには街灯がなかったことを考えると、神殿の丘から放たれるこの巨大な光は、圧倒的な輝きを放って町中を煌々と照らしたことでしょう。

2. 「火の柱」の記憶

それでは、なぜ、これほど大規模なライトアップを行ったのでしょうか。それは単なる演出ではなく、かつて荒野の旅路において、神が「火の柱」をもって闇夜を照らし、民を導いたことを記念するためでした。

21 主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。 
22 昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。

出エジプト記13章21-22節(口語訳聖書)

クレイグ・キーナー(Craig S. Keener)は、この背景について次のように注解しています。

As commentators often observe, this lighting celebration commemorated the pillar of fire in the wilderness (Exod 13:21; cf. Ps 78:14; 105:39; Neh 9:12, 19), which recalls other Johannine images such as water (4:14; 7:38) and manna (6:32).
[試訳]多くの注解者が指摘しているように、この点火の祭典は、荒野における「火の柱」を記念するものでした(出エジプト13:21など参照)。これは、水(4:14; 7:38)やマナ(6:32)といった、ヨハネの福音書における他のイメージをも想起させます。) (Craig S. Keener, The Gospel of John: A Commentary)

Craig S. Keener, The Gospel of John: A Commentary & 2, vol. 1 (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2012), 739.

つまり、仮庵の祭りで婦人の庭に立てられていた燭台とそこから放たれる光は、イスラエルの民がかつて荒野を旅した際、神が「火の柱」によって導かれたことを思い起こす象徴的な意味を持っていたということです。

3. イエス・キリストの宣言の衝撃

このような背景を踏まえた上で、初めてイエスの言葉「わたしは世の光です」を理解することができます。

ちなみに、8章20節には「献金箱の近くで」(新改訳2017)とあります。実はこの場所こそ、巨大な燭台が設置されていた「婦人の庭」なのです。

バージ(Burge)はこの劇的な対比を次のように解説します。

Imagine the scene! In the very court where the lighting ceremony takes place, Jesus stands beneath sixteen lit bowls of oil and says that he is not only the true light of Jerusalem, but of the whole world!
[拙訳]その光景を想像してみてください! まさに光の儀式が行われているその庭で、16個の燃える油のボウルの下に立ち、イエスは言われたのです。ご自分こそが、単にエルサレムの光であるだけでなく、全世界のまことの光であると!)

Gary M. Burge, John, The NIV Application Commentary (Grand Rapids, MI: Zondervan Publishing House, 2000), 256.

まさにここに衝撃があります。当時の仮庵の祭りを祝っている人々は、燭台の光を見上げながら、イスラエルの先祖を神が導いてくださったことを思い起こし、主なる神に目を向けていました。しかし、そのような状況で、イエスご自身がその「光」であると宣言されたのです。それはつまるところ、ご自身が神の御子であるという大胆な宣言に他なりません。

祭りの期間が終われば、燭台の火は消えてしまいます。しかし、イエスは「わたしに従って来る者は…命の光をもつ」と約束されました。物理的な光、儀式的な光は一時的ですが、イエスという光は永遠に消えることがありません。

4. イスラエルの失敗と真の光

さらに、神学者N.T.ライトは、この宣言が当時のユダヤ教指導者たちに対する強烈な皮肉と挑戦を含んでいたと指摘します。本来、神の民イスラエルこそが世界を照らす光となるはずでしたが、彼らはその使命を果たせていなかったからです。

This highlights the problem which runs through the whole chapter. Israel was supposed to be the light of the world; but Israel was providing only darkness. If Jesus was now shining the true light into that darkness, there could only be one result: a head-on clash.
[拙訳]これは、この章全体を貫く問題を浮き彫りにします。イスラエルは「世の光」となるはずでした。しかし、イスラエルは暗闇しか提供していませんでした。もし今、イエスがその暗闇の中にまことの光を照らしているのなら、結果は一つしかありません。正面衝突です。

Tom Wright, John for Everyone, Part 1: Chapters 1-10 (London: Society for Promoting Christian Knowledge, 2004), 117.

イエスが「世の光」であるという宣言は、単なる自己紹介ではなく、「わたしこそが、あなたがたが儀式で追い求めている『神の導き』そのものであり、イスラエルが果たすべき使命を完成する者だ」という力強い宣言でした。そして、そのことは必然的に、宗教指導者たちの反感を買うことになります。

まとめ

「仮庵の祭り」では「光の儀式」が行われていました。その光とは、かつてイスラエルの民がエジプトを脱出した後、荒野の旅路を導いた「火の柱」を想起させるものでした。それは暗闇の中を歩む民にとって、希望の光、命の光に他なりません。

しかし、そのような祭りの只中で、イエスは「わたしは世の光」だと大胆にも宣言されたのです。このフレーズは、現代でも広く親しまれているように思います。それは時に、曖昧で、漠然としたものとして理解されがちです。しかし、仮庵の祭りの背景を理解すると、それがいかに具体的な意味が込められていた言葉であるかがわかるのではないでしょうか。

このところで、イエスはかつてイスラエルの民を荒野で導いた火の柱になぞらえています。その宣言は、人々にとってどのような意味を持ったでしょうか。イエスという「光」は、人生という荒野を照らす「火の柱」です。それは、祭りの期間が終わっても照らし続ける光です。そして、その光のうちを歩むとき、もはや暗闇の中を歩むことはありません。それこそが「いのちの光」です。

このように考えますと、人生というのは荒野の旅路のようなもので、それはまるで暗闇に覆われたようなものであることがわかります。しかし、イエスという光を持つときに、その旅路を進むことができるのです。これは旅をしなくてもいいということではありません。依然として、茫漠とした荒野が目の前には広がっているのです。しかし、進むべき方向、歩むべき道のりは示されています。そのような旅をイエスといういのちの光に導かれて歩むことを、イエスはこの仮庵の祭りという極めて具体的な場面で鮮やかに示されたのです。