選挙が近づき、メディアでは経済政策や豊かさについての議論が絶えません。また、牧師として日々多くの方と接する中で、家計の悩みや将来への不安といった「経済のリアル」が、いかに私たちの心と密接に関わっているかをひしひしと感じています。

私たちは今、資本主義という巨大な「海」の中に生きています。この海を否定して陸に上がることは困難ですが、その流れに飲み込まれて溺れないための「姿勢」を、聖書から学ぶことは大切なことかもしれません。

1. 資本主義の論理と、私たちの「実感」

資本主義は「私有財産」「利益追求」「自由競争」を柱とし、無限の「成長」を善とします。この仕組みは人類に驚くべき利便性をもたらしましたが、副作用として私たちに「もっと多く、もっと効率的に、もっと速く」という強迫観念を植え付けます。

ただこれは、ある意味においては、必然の結果とも言えるのかもしれません。というのも、人間には「欲」があり、それがある限り、際限なく欲し続けるからです。つまり、仕組みが人間をそうさせているのではなく、人間のうちから湧き上がるものがたどり着いた当然の帰結だということです。

しかし、聖書はこのシステムの中に生きる私たちに、欲の連鎖から自由になるための別の視点(対抗軸)を提示しています。

2. 聖書が示す「生きる姿勢」の3つの軸

①「所有」から「管理(スチュワードシップ)」へ

資本主義は「これは私のものだ」という所有権を強調します。しかし、聖書は世界の「持ち主」が誰であるかを明確にしています。

地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。

詩篇24篇1節(口語訳聖書)

聖書的な視点に立てば、私たちはこの世界の持ち主ではなく、神から一時的に預かっている「管理人(スチュワード)」だと言えます。これは一見すると、自分の財産を確保することが当たり前の現代では受け入れ難いものであるように思われますが、このように考えるとき、私たちは「失う恐怖」や「執着」から自由になり、与えられた資源をどう用いるべきかという、より健全な責任感へと導かれます。

②「無限の成長」から「安息」へ

休むことなく成長し続けることを求めるシステムに対し、聖書はあえて「立ち止まること」を命じます。

七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

出エジプト記20章10節(口語訳聖書)

「安息」というのは、聖書が教える重要なテーマの一つですが、聖書が教える「安息」は単なる休息ではありません。安息の教えを実践するということは、「自分の生産性がなくても、神の恵みによって生かされている」ことを認める信仰に基づくものだと言えます。立ち止まる姿勢を持つことで、私たちは「何もしない自分には価値がない」という偽りの声から解放されるのです。

③「競争」から「隣人愛」へ

市場の論理は「他者より優位に立つこと」を求めますが、キリストが示されたのは、利益よりも「関係」を優先する道です。

37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 
38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。 
39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

マタイによる福音書22章37-39節(口語訳聖書)

これは「黄金律」とも呼ばれるもので、聖書の教えの中でも中心的なものだと言えます。そして、おそらくこの教えに共感を覚えない人はいないと思います。それほどに、「愛」は重要だと誰もがわかっています。ただ、意見が分かれるのは、ここでの「隣人」とは誰か、についての解釈に起因すると思います。

結局のところ、重要なのは、社会をどう見るか、です。聖書的な言い方をすれば、「隣人」として見るかどうかで、全く変わってくるということです。あの人を隣人だと思うか思わないか、あの国を隣人だと思うか思わないか。その違いが、この教えの実践を方向づけると言えます。

その上で、あらゆる人を包摂するような視点に立ち、経済活動を、単なる数字の積み上げではなく、隣人に仕え、愛を具体化する機会として捉え直す。この姿勢こそが、冷徹なシステムの中に「温かな循環」を生み出すと言えるのではないでしょうか。

3. おわりに:ポスト資本主義を生きる

「資本主義の次」に何が来るのか。脱成長や循環型経済など、多くの議論がなされています。しかし、新約聖書学者のN.T.ライト氏が著書『イエスの挑戦』などで示唆するように、私たちは新しいシステムの到来をただ待つ必要はありません。

私たちの内側にある「もっと欲しい」という渇きがこのシステムを加速させているのなら、その処方箋もまた、私たちの内側にあると言えます。つまり、イエスの復活によって始まった「新しい創造」の論理は、今、私たちの内側から始まっているということです。

しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。

テモテへの第一の手紙6章6節(口語訳聖書)

ここで教えられていることは、「足ること」を知ること、つまり、満ち足りることを信仰によって知るということです。この「足るを知る」姿勢、それは言い換えるなら「管理・安息・愛」という論理で生きることは、単なる心の持ちようではなく、今のシステムの中に神の国の現実を浸透させていく具体的なアクションです。

この自由を携えて、私たちは明日からも、この複雑な世界を軽やかに歩んでいくことができます。