2026年は午年ということで、「馬」に着目して、聖書を読んでみたいと思います。
午年に考える「力」の象徴
現代人にとって、「馬」から連想されるものは何でしょうか。草原を優雅に走る姿、あるいは競走馬のような力強さかもしれません。
実は、聖書の中でも、馬について言及されることが多くありますが、聖書の世界において、馬は単なる動物以上の意味を持っていました。それはすなわち当時における「最新兵器」であり、圧倒的な「軍事力と富」の象徴としての「馬」です。
聖書の警告:なぜ「馬」を増やしてはいけないのか
意外に思われるかもしれませんが、聖書の中で神様は、指導者たちに対して「馬を増やしてはならない」と命じています。
16 王となる人は自分のために馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。
申命記17章16節(口語訳聖書)
当時の王にとって、馬を揃えることは国防の要でした。しかし、神がそれを禁じたのには理由があります。それは「目に見える力(馬)」を手に入れると、人は「目に見えない神」を信頼することを忘れてしまうからです。
イスラエルの歴史上、最高の知恵者と呼ばれたソロモン王でさえ、晩年には大量の馬を輸入し、力に依存する中で、次第に神から心が離れていったことが聖書には記されています。そのように、人間というのは誰もが目に見える力に頼りたくなることは極めて自然なことであるわけですが、このことは、私たち現代人にも無縁の話ではないように思われます。学歴、キャリア、貯金、あるいは自分自身の能力……。それ自体は悪いものではなくても、いつの間にか「これさえあれば安心だ」と、神以外のものを「自分の馬」として頼り切ってしまっている、ということがあるかもしれません。
預言の成就:軍馬を断つために来られた王
そのように、誰もが目に見える力としての「馬」を求める一方で、ゼカリヤ書には、驚くべき預言があります。
9 シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。
ゼカリヤ書9章9-10節(口語訳聖書)
10 わたしはエフライムから戦車を断ち、エルサレムから軍馬を断つ。また、いくさ弓も断たれる。彼は国々の民に平和を告げ、その政治は海から海に及び、大川から地の果にまで及ぶ。
聖書が指し示す救い主は、軍馬に乗って他国を侵略する武将としてではなく、むしろ「軍馬を断つ」者として来ると預言されたのです。そして、その数百年後。イエス・キリストは、この預言の成就として、エルサレムに入城されました。イエスが選んだのは、立派な軍馬ではなく、小さく、不格好で、何の武器も持たない「ろばの子」だったのです。
この有名な場面について、マタイの福音書21章にこのように記されています。
1 さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、
マタイの福音書21章1-5節(口語訳聖書)
2 「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。
3 もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。
4 こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。
5 すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。
これは、この世界の常識となっている「力による解決」に対する、神からの逆説的な答えでもあります。つまり、本当の平和は、相手を威圧する「馬の力」によってではなく、自分を低くする愛と謙遜によってもたらされるのだということです。
もしも、イエスが、ここで軍馬に乗って来られたら、結局は神の価値観というのも、人間の価値観と何も変わっていないことになります。要するに、この世界は目に見える力によって支配されているということです。しかし、イエスが軍馬ではなく、ろばに乗って来られたということは、すなわち、神の価値観は、この世の価値観とは全く異なることが明らかにされたということです。
2026年、何を誇って歩むか
「馬」に関して聖書ではたくさん言及されていますが、その中の一つ、詩篇20篇ではこのように言われています。
7 ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る。
詩篇20篇7節(口語訳聖書)
私たちは日々、「もっと強くならなければ」「もっと武装しなければ」というプレッシャーにさらされています。しかし、聖書が私たちに示す道、聖書が教える価値観は違います。自分の弱さを認め、馬から降りて、神の助けを求めて歩む道です。
それは例えるなら、イエス・キリストは、馬に乗って私たちを追い越していく方ではなく、ろばの歩みで、私たちの隣を共に歩いてくださるようなお方だと言えるように思います。誰もが、この世の強さを求めるこの世界で、目に見える「馬の力」に一喜一憂するのではなく、決して変わることのない神の愛を信頼して、その愛に生かされて一歩ずつ歩む一年となりますように。
