本書は、聖書原語と古代語訳研究者の泰斗、村岡氏による聖書原語の深みを伝える一般書です。冒頭でも「学術書ではありませんので、専門用語は極力控え、また原語の引用も最低限に抑えました」(10頁)と言われている通りです。

聖書原語と聞くと、研究者以外には無縁のものと思われがちです。ですが、本書ではそのような偏見が、村岡氏ご自身の体験や発見を交えながら、解かれていく、そのような印象を受けます。

本書では、主に聖書原語である「ヘブライ語」「ギリシャ語」「アラム語」について取り上げられます。

原語について、学んで何の意味があるのかと思われるかもしれませんが、そのような学びがいかに、信仰に影響するかということを、先生の興味深いエピソードが物語っています。

その一例として、創世記38章に関する説明を取り上げます。ここで語られるのは、ユダの息子の嫁であったタマルが、未亡人となり、紆余曲折を経て義父ユダとの間に子供を授かるという、一見すると不可解でスキャンダラスな物語です。この箇所について先生はこのように述懐しています。

しばらく前、創世記について12章から章を追って話していたとき、三八章に差しかかり、それについての説教の準備に入ろうとした際、聖書はなぜこんないやらしい話を伝えてくれたのだろう、と気分が悪くなりました。なにぶん、章を追って話していますから、飛ばすことも難しいのです。それでも、いつものようにヘブライ語原文で読み進んでいたところ、目から鱗が落ちました。

村岡崇光『聖書を原語で読んでみてはじめてわかること』(いのちのことば社、2019年)、24頁

このとき、先生が注目したのはヘブライ語の「前置詞」です。

彼女はユダによってみごもった。

創世記38章18節(口語訳聖書)

ここで、「によって」(英訳では、”by”)と訳されているヘブライ語の前置詞は、「のために、よかれと思って」としか訳せないと指摘されています。なぜなら、「によって」を表すのに適した前置詞は他にあるからです。そして、このことは「ヘブライ語初級文法を習い始めて、まだ数週間にしかならない学生にとっても自明のこと」だと言います。このことに気づいたとき、「私のタマル観は百八十度の転換をしました」と述べられます。

そして、このような結論に至ります。

タマルは、嫁ぎ先の家族が、将来はその子孫が空の星、浜の真砂のように増える、と神から輝かしい約束をいただいているのを聞いていたのではないでしょうか。それにもかかわらず、このまま放っておけば、義父ユダは十中八九、孫に恵まれないかもしれない、ここは私の出番だ、と考えたのではないでしょうか。タマルはそう結論したら、電光石火のごとく即刻実行にかかりました。彼女が空閨をかこっていたのでもなく、小遣いが底をつき始めていたからでもないことは、「事」が終わると、義父の目を欺くために纏っていたこれ見よがしの娼婦の衣装をすぐさまかなぐり捨て、寡婦の衣装に着替え、その場を去り、二度とその場所に戻ってこなかったことからもわかります。

村岡崇光『聖書を原語で読んでみてはじめてわかること』(いのちのことば社、2019年)、25頁

このように考えるなら、のちに聖書の中で「タマル」について言及される意味も理解できるようになります。

どうぞ、主がこの若い女によってあなたに賜わる子供により、あなたの家が、かのタマルがユダに産んだペレヅの家のようになりますように」。

ルツ記4章12節(口語訳聖書)

ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、

マタイによる福音書1章3節(口語訳聖書)

これらの引用における「タマル」は非常にポジティブなものだと考えられます。タマルがよかれと思ってしたことは、タマルに汚名を着せることになってしまいましたが、このような後の人たちの中では、「タマルは呪われた、いやらしい女ではなく、祝福された、模範的な妻と考えられていった」のであり、「彼女の名誉は完全に挽回された」のです(26頁)

このような神学的な深みを知り得たのは、紛れもなく、何の変哲もないヘブライ語の「前置詞」の再発見によるということは、聖書を原語で読むことの意義を鮮やかに示しているように思われます。そして、この先生の意見が『新改訳2017』では取り入れられ、このところは「こうしてタマルはユダのために子を宿した」となっています(27頁)。

これは本書の中の本の一例で、他にも原語を読むと見えてくる発見がたくさん綴られています。それは、日本語訳の「は」や「が」の違いにも注目したような、細かいものにも及びます。さすが、一級の研究者は違うなと脱帽です。

また、本書の特徴の一つは、「七十人約聖書」の有益性にも触れていることだと思います。「七十人約聖書」というのは、簡単に言えば、2000年前のイスラエルで用いられていた、(旧約)聖書のギリシャ語の翻訳聖書です。村上氏は、七十人約聖書の意義についてこのように述べています。

私が七十人訳にここまではまりこんでいることについては、いくつかの理由がありますが、その大事な一つは、七十人訳が旧約と新約との大事な架け橋になっているからです。
[中略]
ここで大切なことは、キリスト到来以前にこの七十人訳がユダヤ人社会では深く浸透しており、海外のユダヤ人の大多数は旧約聖書をギリシャ語で読んでいたのではないか、ということです。また、そういったユダヤ人と何らかの接触があって、改宗した異邦人はもちろんギリシャ語で聖書を読んでいたことでしょう。
[中略]
ここでもう一つ大事なことは、問題はギリシャ語文法や、語彙の問題に尽きないということです。翻訳を読んでいると、そこに翻訳者と彼が所属する社会の世界観、社会観、人生観が反映しているのに気づくことがあります。翻訳あるいは口頭の通訳は、原文を読む人、あるいは通訳者による理解が前提になります。書いてあること、聞いたことを理解したうえで、翻訳あるいは通訳するわけです。そうしますと、七十人訳は旧約聖書の最古の注解書である、ということになります。

村岡崇光『聖書を原語で読んでみてはじめてわかること』(いのちのことば社、2019年)、 150-152頁

村岡先生はじめ、研究者の間では、七十人訳聖書というのは重要な資料であることはもちろんですが、私が注目しているのは、その重要性を一般読者にも向けて伝えようとしておられる先生の熱意です。まさに、聖書の原語を学ぶことの楽しさ、その意義深さの深淵へと読者を招いているように感じるのです。

このように、本書では聖書を原語で読むことについて、先生の実体験や率直な感想などを交えてわかりやすく語られています。しかし、このように聞くと、翻訳聖書で読むことの意義が薄れてしまうように思われるかもしれません。ですが、決してそんなことはありません。そもそも、聖書を原語で読んだからといって、聖書の理解が全く覆されるということはありません。その点について、村岡氏も冒頭で指摘しています。

イタリア語の格言に、”Traduttore traditor”というものがあります。直訳すると、「翻訳者、すなわち裏切り者」です。どんな名訳でも、原文の言わんとするところを百パーセント伝えることはできない、という意味です。聖書を原語で読んだからといって、解釈上のすべての疑問が氷解するわけではありません。先述のとおり、複数の日本語訳を比較すればあちこちで違った訳に出くわすことからも、そのことは明らかです。しかし、アルファベット詩のように、原語で読んでみて初めて味わえるようなこともあり、また翻訳だけで読んでいたのでは見えてこない解釈の可能性もあることがわかります。

村岡崇光『聖書を原語で読んでみてはじめてわかること』(いのちのことば社、2019年)、 18頁

原語で読めば、全てが明らかになるわけではありませんが、それでも、原語を読んで理解が深められることがあるということを具体例が挙げられながら説明されているのが、本書の特徴です。

もちろん、それでは誰でも簡単に原語を読むことができるのかと言えば、それは難しいという現実があることも確かです。ですが、少なくとも、このような解説に触れることで、今までよりもはるかに聖書の深みに気づけるということはあるのではないかと思います。

そして、個人的に重要だと思うことは、今もなおこのような聖書の研究は続けられているということです。私たちが日頃使っている翻訳聖書も、これから何度も改定されていくことでしょう。一見すると、その度ごとに戸惑いを覚えてしまいやすいわけですが、しかし、そのような研究の積み重ねは、真摯に神の言葉に向き合おうとするあるべき信仰者の姿でもあるように思うのです。そのような学びの一歩を、本書を通して初めてみるのはいかがでしょうか。


ぼくどくノート

正直に言うと、聖書を「原語」で読むなんて、昔の自分にとってはどこか遠い世界の話だと思っていました。文法を覚えるのは大変だし、辞書を引くのも一苦労。今でも、決してスラスラ読めるわけではありません。

ですが、この本を読んでいて、ふと救われたような気持ちがしました。

村岡先生のような世界的な学者が、たった一つの「前置詞」に立ち止まって、「あぁ、タマルはこういう思いだったのか」と心を動かされている。その姿を見て、「あ、これでいいんだな」と。

聖書というのはついつい「正解」を探すための教科書のように読んでしまいがちです。ですが、本来はもっと、言葉のひとつひとつに驚いたり、登場人物の痛みに寄り添ったりする、人間らしい営みであるように思います

「によって」じゃなくて「のために」。 その小さな発見が、読みづらい話だと思っていた箇所を、全く別の視点へと変えました。こういった体験こそが、聖書を学ぶ本当の楽しさなんだと思います。

本サイトも、そんな風に誰かがふと立ち止まって、「へぇ、面白いな」と思えるような場所になれば、個人的には嬉しく思います。