「教会はコスパが悪い」。
そんな声を聞くことがあります。その感覚はよくわかります。毎週日曜日に時間を使い、献金もあり、目に見えるわかりやすいリターン(見返り)が保証されているわけでもない。現代の「コスパ(コストパフォーマンス)」の基準で考えれば、確かに分が悪そうです。
ただ、ここで少し考えたいことは、私たちが無意識に使っているその「コスパ」という計算式が、これからも正しく機能し続けるのか、ということです。
その根本的な問いを与えてくれたのが、田内学さんの著書『お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点』(朝日新聞出版、2025年)です。(※こちらの記事でも田内さんの本に触れています)
あるポッドキャストの番組で、著者の田内さんがふと「教会」の存在意義について言及されていたのを聴き、経済の専門家から教会の話題が出たことに驚いて本書を手に取りました。そこには、深く納得させられる視点がありました。
「老後資金2000万円問題」が話題になって久しく、今ではその額が3000万、4000万と膨れ上がっています。しかし本書が提起するのは、「お金さえ蓄えればすべて解決する時代は終わった」という現実です。なぜなら、どれだけ口座にお金があっても、社会に働き手(ヒト)やサービス(モノ)が存在しなければ、そのお金は意味を持たないからです。
「老後の不安」は、個人の資産形成で解決する問題ではなく、人口構造という国全体で取り組むべき問題だった。それがいつしか、「個人のお金の不安」にすり替えられてしまった。
田内学『お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点』(朝日新聞出版、2025年)、164頁
少子高齢化が進む社会では、お金を出しても担い手そのものがいない、という現実がすでに始まっています。介護が必要になったとき、側にいてくれる人は?病気で動けなくなったとき、気にかけてくれる人は?「カネ」があっても「ヒト」がいない時代は、もはや将来の話ではありません。
ここで、コスパの話に戻りましょう。 コスパという計算式が成り立つのは、「お金さえ出せば必要なものが手に入る」という前提がある社会だけです。これから先、お金を出しても手に入らないものが増えていくとしたらどうでしょうか。競争に勝って自分だけのお金を増やし、コスパを極限まで追い求めた先に待っているのが「誰とも繋がりを持てない孤独」だとしたら、それは果たして本当にコスパが良い人生と言えるのでしょうか。
ここに、教会の存在意義が浮かび上がってくるように思います。教会の本質は、遡れば新約聖書の「初代教会」の姿に行き着きます。
44信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、
使徒行伝2章44-47節(口語訳聖書)
45資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。
46そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、
47神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。
古代ローマは現代よりもはるかに深刻な格差社会でしたが、初代教会の人々は資産の多寡に関わらず互いを支え合い、必要を満たし合っていました。注目したいのは「よろこびと、まごころとをもって」という一節です。彼ら彼女らが分かち合っていたのは、義務でも取引でもなく、喜びそのものでした。
ここに、コスパという発想との根本的な違いがあります。コスパとは「投資に対してどれだけ回収できるか」という問いです。それはサービスを消費する場所には当てはまっても、教会のような共同体には本来なじまない物差しです。教会とは、単にサービスを受け取る場所ではなく、自分も与え、相手からも受け取るという「相互の関係」の中に入っていく場所だからです。
コスパという問いが成立するのは、自分が「消費者」である場合だけです。しかし教会の門をくぐるとき、人は消費者ではなく「共同体の一員」になります。その瞬間、コスパという冷たい物差しは、その意味を失うのです。
現代の教会もまた、この精神を受け継いでいます。社会的地位や貯金の額ではなく、ただ「神の家族に迎え入れられた者」として、分け隔てなく一つのテーブルで食事を囲む。教会という共同体に身を置くとき、私たちは「不安を抱え、孤立を恐れているのは自分一人ではない」と気づくことができます。それのみならず、初代教会からの分かち合いの精神によって、生活のあらゆる面で互いに助け合うこともできるのです。
現代において、教会は決して「流行の場所」ではないかもしれません。「教会はコスパが悪い」という言葉が出てくるのは、多くの人がまだ教会を消費するサービスとして見ているからでしょう。
しかし、社会構造が変化し、お金で解決できない孤独が進むこれからの時代にこそ、利害関係を超えた共同体が必要とされています。2000年という長い歴史の中で、教会が存続してきたという事実は、人間が決して「コスパ」や「経済的な豊かさ」だけでは生きられない存在であることを、何よりも雄弁に物語っています。どんな時代にあっても、人は根源的に、無条件に受け入れられ、互いの弱さを補い合える場所を必要としてきました。消費とコスパの計算式を手放した先にある、人が共に生きる温かな場所。それこそが、これからの社会に最も求められる教会の姿なのではないかと思います。
