「私たちはどこから来て、何のために生きているのか?」

聖書の最初の書である『創世記』には、「初めに、神が天と地を創造した」と記されています。しかし、現代を生きる私たちにとって、この「創造」の物語はどのように受け止めればよいのでしょうか。多くの人は、「科学的に証明できない」と遠ざけてしまうかもしれません。

しかし、聖書が語る「創造」のメッセージは、宇宙が「どのように(How)」できたかという科学的なメカニズムではなく、「誰が(Who)」「何のために」造ったのかという、私たちの存在意義に関わる真理を教えてくれています。今回は、神学者による神学的な洞察から「創造主」を信じる意味について考えてみたいと思います。

1. 科学と対立するのか?:「歴史的たとえ話」としての創世記

聖書の創造の記録を読むとき、現代の進化論や宇宙論とどう折り合いをつけるべきか悩むことがあります。しかし、旧約聖書学者のJ. ゴールディンゲイは、創世記1章はカメラで撮影したような物理的な記録ではなく、神の創造という真理を伝えるための「歴史的たとえ話(Historical Parable)」であると指摘しています。

Genesis 1 is a portrait, a dramatization, a parabolic story. This does not imply it is not true; it means its truth is expressed in the manner of a parable. Painting this picture for people helps underline various aspects of the nature of creation.

[拙訳]創世記1章は、肖像画であり、ドラマ化されたものであり、たとえ話的な物語です。これは、それが真実ではないということを意味するのではありません。その真理が、たとえ話という形式で表現されているということを意味するのです。人々に向けてこのような姿を描き出すことは、創造の性質が持つ様々な側面を際立たせる(明確にする)のに役立つのです。

John Goldingay, Genesis for Everyone, Part 1: Chapters 1–16, Old Testament for Everyone (Louisville, KY; London: Westminster John Knox Press; Society for Promoting Christian Knowledge, 2010), 28.

つまり、架空の作り話ではありませんが、事実を伝えるために、いわば文学的な表現(たとえ)が用いられているということです。この視点に立つと、聖書を科学の教科書のように読んで無理に科学と対立させたり、迎合させたりする必要はなくなります。

2. 人間は神の奴隷ではない:古代神話との決定的な違い

聖書は「神が世界を創造した」と語ります。この凄さは、聖書が書かれた当時の「常識」と比較すると浮き彫りになります。

当時、イスラエルの周辺(バビロンなど)にも創造神話はありました。しかし、そこでの人間は、神々の面倒な労働を肩代わりさせられ、神々に食物を捧げるための「奴隷」として造られたとされていたのです。

しかし、聖書の語る創造は全く違います。聖書学者のG. ウェナムは、聖書における人間の尊厳を次のように対比しています。

According to the Atrahasis epic mankind was created as an afterthought to break the strike called by the lesser gods and to supply food to the gods through the offering of sacrifice. But in Genesis 1 the creation of man constitutes the climax of the creation story: created in God’s image human beings are God’s representatives on earth. Far from man supplying God with food, it is God who supplies man with food.

[拙訳]アトラ・ハシース叙事詩によれば、人類は、下級の神々が起こしたストライキを終わらせ、いけにえを捧げて神々に食物を供給するための『付け足し(後から思いついたもの)』として造られました。しかし、創世記1章において、人間の創造は創造物語のクライマックスをなしています。神の像(かたち)に造られた人間は、地上における神の代理人なのです。人間が神に食物を供給するどころか、人間に食物を供給してくださるのは神なのです。

Gordon J. Wenham, Exploring the Old Testament: The Pentateuch, vol. 1 (London: Society for Promoting Christian Knowledge, 2003), 16.

このように、人間が神を養うのではなく、神が人間を養ってくださると語る聖書は、当時、周辺諸国で流布されていた「創造神話」とは決定的に異なっていることが分かります。人間は神の像(代理人)として、愛と目的をもって造られた尊い存在であることが、『創世記』では宣言されているのです。

3. 創造主と被造物の決定的な「区別」

創造主を信じることは、私たちに健全な謙遜さを与えてくれます。神学者D. ジョンソンが指摘するように、創世記に登場するあらゆるもの(人間や動物など)には「始まり(系図)」がありますが、神にだけは系図がありません。ここには、「創造する側」と「される側」という天と地ほどの決定的な区別があります。私たちは自分の人生の「所有者」ではなく、神に生かされている「管理者」にすぎないのです。

Here in Genesis 1, God just is. Unlike the gods found throughout the Fertile Crescent, God’s genealogy is never discussed in the Bible. God does not come from anyone or anything. Unlike everything else in the cosmos, God has no lineage. Moreover, God creates and he is the only one that “creates.” The word “create” (bara) is reserved almost exclusively for God in the Old Testament. Humans never create. We can make, fashion, form, shape, or build things, but we cannot create anything according to Scripture. Only God is the subject of the verb “create” (bara) in the Bible. When we say that God is the Creator, we are reinforcing both the description of a God who has no origin story, a God who is somehow a community and an individual, and a God who creates. These three distinctives display God’s one-of-a-kind attributes if we considered nothing else outside of Genesis 1.

[拙訳]ここ、創世記1章において、神はただ存在する方です。肥沃な三日月地帯の至るところに見られる神々とは異なり、聖書において神の系図が語られることは決してありません。神は誰かから、あるいは何かから生じたわけではないのです。宇宙にある他のすべてのものとは異なり、神には系譜がありません。

さらに、神は創造される方であり、神こそが「創造する」唯一の存在です。旧約聖書において、「創造する(バーラー)」という言葉は、ほぼ独占的に神のために取っておかれています。人間が決して創造することはありません。私たちは物を作ったり(make)、仕立てたり(fashion)、形作ったり(form, shape)、組み立てたり(build)することはできますが、聖書によれば、何かを「創造する」ことはできないのです。聖書の中で、「創造する(バーラー)」という動詞の主語になるのは神だけです。

私たちが『神は創造主である』と言うとき、私たちは、起源の物語を持たない神、どういうわけか共同体でありながら個でもある神、そして創造する神、という神の姿を強調していることになります。たとえ創世記1章以外の記述を一切考慮に入れなかったとしても、これら3つの特徴は、神の唯一無二の属性を示しているのです。

Dru Johnson, The Universal Story: Genesis 1–11, ed. Craig G. Bartholomew and David Beldman, Transformative Word (Bellingham, WA: Lexham Press; St. George’s Centre, 2018), 21.

このように、創造主と被造物の間には、決定的な区別があります。しかし、この区別は、物質世界を低く見ることではありません。古代のグノーシス主義などは、物質や肉体を「悪」と見なし、この世からの魂の脱出を救いと考えました。しかし、初期のキリスト教徒はそれに断固として反対しました。しばしば指摘されるように、悪とは神が造った物質そのものではなく、本来良いものが目的から外れてしまった、いわば「調律の狂ったギター」(Ben Myers)のような欠如状態にすぎません。つまり、この世界は捨て去られるべき「悪」ではなく、神によって造られた「良いもの」であり、癒やしを必要としているだけだということです。

4. 私たちは「原子と分子」にすぎないのか?

現代の唯物論的な視点から、「人間なんて、結局は原子と分子の塊にすぎない」と言う人がいます。確かに科学的な成分分析としては正しいでしょう。『創世記』にも人間は「大地のちり」から造られたと記されています。

しかし、神学者のA. E. マクグラスは、私たちは物質以上の存在であると語ります。

The Genesis creation accounts emphasize that we are more than physical structures; the Spirit of God inhabits us. ‘The Lord God formed man from the dust of the ground, and breathed into his nostrils the breath of life; and the man became a living being’ (Genesis 2:7). Yes, we do originate from the dust; yes, we are formed of the material of the world around us; but we are more than this!

[拙訳]創世記の創造の記述は、私たちが単なる物理的な構造物以上の存在であることを強調しています。神の霊(いのちの息)が私たちの内に宿っているのです。『主なる神は、土のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は、生きる者となった』(創世記2:7)。確かに、私たちはちりから生じました。確かに、私たちは周りの世界の物質から形造られています。しかし、私たちはそれ以上の存在なのです!

 Alister McGrath, The Spirit of Grace, vol. 4, Christian Belief for Everyone (London: SPCK, 2015), 27.

さらに、マクグラスは「チャーチルの手紙」という具体的な例を挙げて説明しています。偉人から届いた手紙は、科学的に見ればただの「紙とインク」ですが、その価値は「誰から送られたか」という関係性にあります。それは人間も同じです。人間は突き詰めれば、原子と分子からできていますが、そこに神の息が吹き込まれた「神からの手紙」のような、特別な存在なのです。

5. 魂の「帰巣本能」

私たちが聖書の証しする「創造主」を信じることは、「自分は何のために生きているのか」という根源的な問いへの答えを見出すことでもあります。

マクグラスは、人間には造り主のもとへ帰ろうとする「帰巣本能(homing instinct)」があると言います。

The cat had a homing instinct. And so do we. We possess a built-in longing for God. And it remains a part of us, no matter how hard we try to suppress it, ignore it or explain it away as an irrational outcome of our evolutionary past. Eternity has been planted in our hearts.

[拙訳]その猫には帰巣本能がありました。そして私たちにも、それがあるのです。私たちは、神を慕い求める思いを生まれながらに持っています。そして、私たちがどんなにそれを抑え込もうと、無視しようと、あるいは進化の過程で生じた非合理的な結果だとして理屈で片付けようとしても、それは私たちの一部としてとどまり続けるのです。私たちの心には、永遠への思いが植え付けられているのです。

Alister McGrath, The Spirit of Grace, vol. 4, Christian Belief for Everyone (London: SPCK, 2015), 29–30.

ここで「Eternity has been planted in our hearts」というマクグラスの指摘から想起されるのは、伝道者の書の一節です。

神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。

伝道の書3章11節(口語訳聖書)

私たちが自分が被造物であることを否定し、神なしで生きようとすることは、帰るべき家を忘れて彷徨うようなものです。しかし、自分を造られた方がいることを認め、その方に人生を委ねる時、私たちは魂の本当の故郷に帰り、深い安らぎ(安息)を得ることができるのです。創造主を信じるとは、私たちがどこから来て、誰に愛され、どこへ向かうのかを知る、希望に満ちた宣言だと言えます。

6. 結び

「創造主を信じる」という言葉を、もっと手近な感覚に引き寄せてみると、それは「自分は価値がある人間だと、必死に証明し続けなければならない」という重荷を、そっと横に置くことなのかもしれません。

もし私たちが偶然の重なりで生まれた「原子の塊」にすぎないのだとしたら、自分の価値は自分一人の力で証明し続けなければならず、それは終わりなきマラソンのように息苦しいものです。けれど、もし自分が「意図をもって造られたもの」なのだとしたら。

たとえ今、自分の人生が「調律の狂ったギター」のように不協和音を奏でていたとしても、その本来の音色を知っている誰かがいる。マクグラスが言うところの「紙とインク」でしかないような自分という存在の中に、誰かが込めた「メッセージ」が隠されている。 そう思えるだけで、何者かになろうと焦る気持ちが、少しだけ静まるような気がします。

聖書によれば、人間というのは、どれだけ見栄を張っても、背伸びをしても、「大地のちり」から来た、小さく脆い存在です。しかし、そのちりの中に「永遠を思う思い」が植え付けられている。この「矛盾」こそが、人間の持つ不思議な尊厳の正体なのではないかと思います。

「私はどこから来て、どこへ帰るのか」

そんな問いを抱えながら、誰もが生きているように思います。そして、そんな時には、誰でも空を見上げるのではないでしょうか。ちっぽけな人間が空を見上げ、宇宙の広大さに圧倒されながらも、どこか「帰るべき場所」があるように感じること。

そのような、言葉にならない静かな安らぎの中に身を置くことが、このような時代だからこそ、必要なのではないかと思わされます。