神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。 神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。
出エジプト記3章4-5節(口語訳聖書)
モーセはミデヤンの荒野で、しゅうとイテロの羊を飼うというごく日常的な働きの中にいました。そのありふれた日常のただ中で、彼は「燃えているのに燃え尽きない柴」という異常な光景に出会います。ここで注目すべきは、出会いを主導しているのはモーセではなく、完全に神の側だということです。神は「モーセよ、モーセよ」(3:4)と名を重ねて呼ばれました。聖書において名を二度呼ぶことは、強い親密さと緊急性を示しています。この圧倒的な神の呼びかけに対し、モーセは「ここにいます(ヘブル語:ヒネニ)」と応答します。これはアブラハムやサムエルも用いた、神の御前に自らを差し出す全き応答の言葉です。
続いて神は、「足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」(3:5)と命じます。古代中東において靴を脱ぐことは、敬意とへりくだりの表現でした。しかしそれ以上に、ここには深い霊的意味があります。荒野を歩くための保護具である靴を脱ぐとは、自分の身を守る力、地位、経験といった「自己防衛」を手放し、神の御前で無防備になることを意味します。この場所が「聖なる地」とされたのは、そこが特別な場所だったからではなく、そこに「神が臨在されたから」に他なりません。モーセは自分の力ではなく、ただ神の聖なる臨在に圧倒され、すべてを委ねるしかなくなったのです。
私たちもまた、仕事や家事、日々の営みという「荒野の日常」の中で、神からの呼びかけを受けることがあります。それは燃える柴のような奇跡ではないかもしれません。ふと誰かのために祈るよう促されたり、自分の力でコントロールしようとする手を止めて「わたしに委ねなさい」と示されたりする、静かな心の促しです。その時、神が私たちに求めておられるのは、立派な業績や能力を提示することではなく、ただ「靴を脱ぐ」ことです。それは、自分の力や理解の枠組み、あるいは自分を守ろうとする執着から解放され、神の前にありのままの無防備な姿で立つという恵みの招きです。「靴を脱ぐ」ことは、自分の頼みの綱を手放すようで少し怖いことかもしれません。しかし、主の聖なる臨在は、無防備になった私たちを必ず包み込んでくださいます。今日、キリストの「わたしについてきなさい」という優しい呼びかけの前に、私たちはどのような重荷や自己防衛の「靴」を脱ぎ捨てるよう招かれているでしょうか。
