わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

イザヤ書6章8節(口語訳聖書)

イザヤが神殿で見たのは、高く挙げられた王座と、主の圧倒的な聖なる臨在でした(イザヤ6:1-3)。そのまばゆい光の中で、彼は自分の罪と汚れを痛感し、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」と絶望の叫びを上げます(6:5)。しかし、主は彼を滅ぼすのではなく、セラフィム(御使い)を通して祭壇の火で彼の唇に触れ、その罪を完全に贖い、清められました。主の召しは、私たちが自力で身を清めた後に来るのではありません。絶望する私たちを、神ご自身が一方的な恵みによってきよめ、立ち上がらせてくださるところから始まるのです。

主の「だれをつかわそうか」という問いかけに対するイザヤの応答は、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」というものでした。興味深いことに、イザヤはこの時、自分がどこへ行かされ、何をするのかという「任務の内容」を全く知らないまま志願しています。主が「人々の心をかたくなにし、耳をふさげ」という、困難で誰からも感謝されないような過酷な使命を告げるのは、彼が応答した後のことなのです(6:9-10)。イザヤは、仕事の条件や結果の保証を見て手を挙げたのではありません。ただ、自分を赦しきよめてくださった主の圧倒的な聖さと慈しみを知ったからこそ、己の全存在を委ねたのです。

私たちが主の召しに応じる時も同じだと言えるのではないでしょか。それは、困難な任務を歯を食いしばって引き受ける「悲壮な覚悟」ではなく、自分のような者を赦し、用いてくださる神への絶対的な信頼からあふれ出る「喜びの献身」です。今日、あなたの人生のただ中で、主は「だれをつかわそうか」と静かに問いかけておられます。それは立派な働きである必要はありません。日常における誠実な歩みや、誰かへの愛の行動かもしれません。私たちをきよめ、力づけてくださる主の恵みに信頼して、「ここに私がおります」と応答する一日でありますように。