イエスの教えの中でも有名なものの一つに「さばいてはならない」というものがあります。
1人をさばくな。自分がさばかれないためである。
2あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
マタイの福音書7章1-2節(口語訳聖書)
そもそも、「さばく」とは何でしょうか。
身近な例で考えるなら、裁判所で行われる裁判が挙げられます。裁判というのは、簡単に言えば、有罪か無罪かが言い渡されるところです。その最終的な宣告は、裁判官が行います。
それでは、私たちが人をさばくとき、それは私たち自身が、その人を有罪か無罪かを宣告しているとも言えるかもしれません。
これは別の言い方をしたら、善か悪かを判断しているということでもあります。
「あなたのそれは正しい」
「あなたのそれは間違っている」
そのようにして、人は誰でも、自分の判断で、他人をさばいているのです。
しかし、ここで思い出されるのは、最初の人間アダムとエバの過ちです。
1さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
2女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
3ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
4へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
5それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
6女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
7すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
創世記3章1-7節(口語訳聖書)
ここでへびの言葉に注目するなら、なぜ二人が神の命令に背いたのかがわかります。つまり、「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となる」ゆえに、二人は禁じられていた実を食べたのです。
本来、善と悪を判断するさばきの権限は創造主なる神のものでした。しかし、人間は自分で善悪を判断したいと、神の主権に挑戦したのです。
その時以来、人間は互いにさばき合っています。誰もが自分の正義を掲げ、自分の正しさを主張します。しかし、本来、さばくことのできる方は、神の他には存在しません。それゆえに、人が人をさばくという行為は、神の主権に対する越権行為だと言えるのです。
使徒パウロは、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンの間にあった、「さばき」の問題について、このように述べています。
1信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。
2ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。
3食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。
4他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。
5また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。
6日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。
7すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
8わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
9なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。
10それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。
11すなわち、
「主が言われる。わたしは生きている。
すべてのひざは、わたしに対してかがみ、
すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」
と書いてある。
12だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。
13それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。
ローマ人への手紙14章1-13節(口語訳聖書)
人はどうしても、自分の方が正しいと考え、それにそぐわない人をさばきたくなってしまうものです。どうしても、善と悪をはっきりさせたいと思ってしまうものです。
もちろん、それが誰が見ても明らかであるなら、問題ないのですが、白黒はっきりしないということの方が多いのではないでしょうか。そのような時に、人間は「さばく」ということを慎まなければなりません。
確かに、それでは問題は曖昧なまま残り続けるという指摘もあるでしょう。しかし、聖書が語る希望は、最後の時には、神によるさばきがあるということです。善は善、悪は悪と、神による判断が下るのです。そのさばきは、人間のものとは全く違い、完全に正しい判断に基づいています。それが、聖書が語る希望です。まさに、パウロもこのところで、やがては神のさばきの座の前に立つことを教えています。それゆえに、今、人間の拙い判断で、互いにさばき合うのは、止めようと言うのです。
昨今は、過激なことを言って、耳目を集めるという手段が、以前にも増して目立ってきています。「悪名は無名に勝る」と言われるように、どんな手を使ってでも、人々からの注目を集めることが利益をもたらす、という状況が生み出されているような現状があるように思われます。白黒はっきりさせた方が、聞いている人もスッキリするし、気持ちがいい。そのような思いというのは、誰もが持っているように思います。
しかし、ここで改めて考えさせられるのは、さばきの権威を持っているのは、神のみであるということです。人には、善と悪をさばくことはできたとしても、それが完全に正しいものである保証はありません。白を黒に、黒を白にさえしてしまう人間の判断は、あまりにも脆く、儚いのです。
そうであるならば、神こそがまことのさばき主であるという謙虚な姿勢を持つということが、クリスチャンには求められているのではないでしょうか。確かに、それは白黒はっきりしない、グレーゾーンの中で、頭を悩ませることもあると思います。しかし、だからこそ、まことのさばき主を求める、神を見上げて、物事を判断していく、そのような姿勢が生まれてくるように思うのです。