2月11日、祝日の穏やかな朝を迎えました。家々には国旗が掲げられ、建国を祝うムードが漂っています。しかし、日本のキリスト教会にとって、この日は単なる休日以上の、背筋が伸びるような緊張感を持つ日でもあります。

今日は、パウロの宣言——「イエスは主であり、皇帝(カエサル)ではない」——という視座から、なぜこの日が「信教の自由を守る日」として大切にされているのか、その神学的な意味を掘り下げてみたいと思います。

1. 2月11日に刻まれた「二つの物語」

かつてこの日は「紀元節」と呼ばれ、国家神道体制における国民統合の象徴的な日でした。戦後、一度は廃止されましたが、1966年に「建国記念の日」として復活します。その際、日本の教会がこの日を「信教の自由を守る日」と定めたのには、深い反省と決意がありました。

かつて、教会が国家の要求(神社参拝など)に抗えず、信仰の純潔を失ってしまった歴史。その痛みを忘れないために、日本のキリスト教会ではこの日、あえて「信教の自由」という言葉を掲げます。それは、この国の歴史を否定するためではなく、この国において「誰が真の主権者か」を問い続けるためです。

2. 「反帝国」とはデモをすることか? —「宇宙の地図」を描き直す

まず、重要なこととして使徒パウロは、「秩序」を重んじることを教えています。

すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。

ローマ人への手紙 13章1節(口語訳聖書)

ゆえに、クリスチャンは、無闇に国家の秩序を乱す反政府主義者ではありません。しかし、同時に使徒たちが命をかけて守った境界線も知っています。

人間に従うよりは、神に従うべきである。

使徒行伝5章29節(口語訳聖書)

近年のパウロ研究では、パウロがピリピの教会に書き送った「私たちの国籍(市民権)は天にある」(ピリピ3:20)という言葉が、当時のローマ帝国に対する痛烈なメッセージであったことが再評価されています。

N.T.ライトなどの学者は、パウロが「主」「福音」「平和」といった皇帝崇拝の用語をあえてイエスに用いることで、「カエサルではなくイエスこそが主である」という「反帝国的(anti-imperial)」な主張を展開したと論じています。 しかし、これは必ずしも街頭でプラカードを掲げてデモをするような「公的な抗議活動」を意味しませんでした。

マンチェスター大学のピーター・オークス(Peter Oakes)は、最近の研究書『The State of Pauline Studies』の中で、パウロの意図をより深く掘り下げています。オークスによれば、パウロが行ったのは、クリスチャンたちの「宇宙の地図を書き直す(redrawing the map of the universe)」ことでした。(参照:「イエス・キリスト」は政治的だったのか? —最新のパウロ研究が明かす「王」としてのイエス

当時の人々にとって、世界の中心には「ローマ」と「カエサル」が鎮座していました。しかしパウロは、その地図の中心に「イエス」を置いたのです。

イエスが中心を占めるならば、定義上、地上の皇帝(国家権力)はもはや絶対的な中心ではなくなり、端へと追いやられます。 日本のキリスト教会が今日「信教の自由」を祈るのは、政治的なデモとしてではなく、「宇宙の地図」の中心に、国家ではなくイエスを据え直すためなのです。

3. 「信仰」とは「王への忠誠」である

世俗的な社会において、信教の自由は「何を信じても良い権利」として語られます。しかし、聖書に立つ者たちにとって、それは単なる権利を通り越し、唯一の主である神にのみ従うという務めです

パウロが語る「信仰(ピスティス)」についても、近年では単なる「心の動き」以上に、王やパトロンに対する「忠誠(Allegiance)」や「関係性」を意味する言葉として理解されています。(参照:「イエス・キリスト」は政治的だったのか? —最新のパウロ研究が明かす「王」としてのイエス

それゆえに、信仰者が「イエスを信じる」と言うとき、それは「私の忠誠心は、地上の国家ではなく、真の王であるイエスにあります」と宣言する、極めて政治的な態度決定であると言えます。 信教の自由を守るということは、私たちが「わがまま」を通すことではなく、神の玉座を神にお返しし続け、真の王への忠誠を貫くという、極めて霊的な戦いなのです。

4. 書き換えられた「地図」を生きる

現代の日本において、戦時中のような直接的な弾圧はありません。しかし、目に見えない「空気」や「同調圧力」という名の「カエサル」が、時に信仰告白を沈黙させようとしているように感じることがあるかもしれません。

使徒パウロは「教会(エクレシア)」という言葉を用いましたが、それは当時の都市における「市民総会(政治的議決機関)」を指す言葉でもありました。

…Park argues that Paul’s ekklēsia was conceived less like a household or voluntary association and more like a society of honorable citizens who represent their city.
[拙訳]パウロの『エクレシア(教会)』は、家や任意団体のようなものとしてではなく、むしろ自分たちの都市を代表する名誉ある市民たちの社会[集会]のようなものとして構想されていた。

John K. Goodrich, “1 Corinthians,” in The State of Pauline Studies: A Survey of Recent Research, ed. Nijay K. Gupta, Scot McKnight, and Erin M. Heim (Grand Rapids, MI: Baker Academic: A Division of Baker Publishing Group, 2024), 175.

ピーター・オークスが提唱した「宇宙の地図を書き換える」という視点は、信教の自由という概念を、単なる近代的な「個人の権利」から、より根源的な「世界の捉え方」へと引き戻します。

当時の人々にとって、世界の中心にはローマと皇帝が鎮座し、あらゆる価値観や秩序はその中心点から規定されていました。しかしパウロは、その地図の中心に「十字架のキリスト」を据え直したのです。この視点の転換が行われると、地上の権力(カエサル)は絶対的な中心から追いやられ、相対化されることになります。

私たちが2月11日に「信教の自由」を思うことは、単に過去の歴史的過ちを回顧することに留まりません。それは、今の私たちの内側にある「地図」が、依然としてキリストを中心としているかを確認する作業でもあります。

先の指摘にもあるように、もし「教会(エクレシア)」が天の都市を代表する名誉ある市民たちの集いであるなら、そこでの祈りや告白は、極めて公的な性格を帯びることになります。それは、目に見えない「同調圧力」や「時代の空気」という名のカエサルに対し、神にのみ属する聖域(良心)を明け渡さないという、静かな、しかし毅然とした意思表示に他なりません。

信教の自由とは、国家によって事後的に与えられる「許可」ではなく、真の王である神から各人に委ねられた「砦」です。この書き換えられた宇宙の地図を持って歩み続けること。それこそが、2026年の日本という地において、「天の市民」としての矜持を保ち続けるということであり、結果として、この社会における真の自由を証ししていく道となるのではないでしょうか。