イエスの系図は新約聖書に二つあります。一つはマタイの福音書、そしてもう一つはルカの福音書。どこの誰かもわからない人の名前がひたらすら羅列されている系図を読むことは、聖書通読の壁の一つとなっています。系図はあまりストーリーに関係ないからと読み飛ばしてしまうこともあるかもしれません。
よく知られていることではありますが、実はこの二つの系図を読み比べると、どちらもイエスの系図でありながら、全く異なる人たちが登場していることに気がつきます。わかりやすいところで言えば、ヨセフの父が、マタイの福音書では「ヤコブ」、ルカの福音書では「エリ」となっているのです。これは一見すると、『マタイ』と『ルカ』における「矛盾」のように思われます。
このような異なる記事を調和する試みは古くからなされてきました。その中でも有名な(?)説を2つ紹介します。
①『マタイ』はヨセフの系図、『ルカ』はマリアの系図を示している。
この説は至ってシンプルで、『マタイ』の方はヨセフの系図を、『ルカ』の方はマリアの系図を示しているというものです。とすると、『ルカ』ではヨセフの父が「エリ」となっていますが、これはマリアの実の父ということになります。では、なぜマリアの父がヨセフの父となるのか、と言えば、それはヨセフがマリアとの結婚の際に婿入りしたからということになります。
また、この説を採用する場合、マリアは必然的にヨセフと同様にダビデの家系となります。『マタイ』と『ルカ』の系図の違いは、ダビデに続く者として「ソロモン」(マタイ)か「ナタン」(ルカ)かが分岐点となっています。したがって、ダビデ→ナタン→・・・→マリアという可能性が生まれてきます。
②「レビラート婚」を採用した解釈
旧約聖書の律法の中で、結婚(再婚)に関する教えがあります。
「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。」(申命記25章5節)
新改訳2017
この説を採用した場合、例えば、ヨセフの父(ヤコブとエリ)は兄弟または異母兄弟となります。どちらかが先に亡くなったので、レビラート婚の教えに従って、もう一人の兄弟が未亡人と再婚することで、ヨセフには二人の父がいることを説明します。そうすると、一人は実の父で、もう一人は法律上の父となります。
以上の二つ以外にも、例えば『マタイ』では王家の系図を、『ルカ』では物理的な(実際の)系図を示しているという説もあります。このように、ヨセフに二人の父がいることを調和する試みが様々なされているわけですが、はっきり言って、どの説も推測の域を出ません。もちろん、このような聖書の矛盾と思われるような箇所を探求することには意味があると思いますし、きっと何かしらの説明はできるのだろうと思います。しかしながら、あまりにも一つの可能性としての説を強調しすぎるのも、個人的にはどうなのかなと思います。実際、注解書やネットの記事などを読んでみても様々言われていますし、何かしらの説を採用しないと疑問が残るから数ある説の中から一つを採用しているという配慮もあるのかもしれません。それはそれで大事なことだとも思いますが、あまりにもそこに注力しすぎると、本筋を見逃してしまうことになりかねません。
大切なことは、イエスの系図は2つあり、『マタイ』も『ルカ』も違う意図を持って系図を取り入れているということです。つまり、系図の内容そのものも重要かもしれませんが、そればかりに目を奪われずに、著者が意図したメッセージを汲み取ることが重要だということです。今回は『ルカ』の系図に注目してみましょう。
『ルカ』における系図の位置は『マタイ』のそれとは異なり、一見すると不自然な配置になっています。ですが、福音書において出来事の不自然な繋がり(前後関係)は、むしろ注目ポイントとも言えます。そこで、前後の出来事との関係に注目してみたいと思います。
まず、ルカがここで系図を挿入するかのように配置しているのは意味があります。系図が始まる直前にはこのように記されています。
「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、」(ルカ3:23)
新改訳2017
ここで「ヨセフの子と考えられていた」というのは、人々はイエスをヨセフの子だと思っていたが、「しかし、そうではない」というのが『ルカ』の意図していることです。これは、イエスがヨセフの子ではないと言っているのではなくて、確かにイエスはヨセフの子ではあるが、本当はイエスは「神の子」であるということを言っているということです。それは、系図を遡るとアブラハムを超えて、アダムにまで繋がり、最後には神にまで至るからです。イエスは神に連なっている「神の子」であることが示されています。これは『マタイ』の系図とは大きく異なる点の一つです。
イエスは神の子である、ということが『ルカ』が伝えようとしているメッセージと言えるわけですが、このことは前後の文脈からも明らかだと思います。系図が挿入されている直前の出来事は、イエスが公生涯を始めるにあたって、バプテスマのヨハネから洗礼を受ける場面です。
「さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。』」(ルカ3:21-22)
新改訳2017
これから宣教活動を始めるという最初の場面で明らかにされていることは、イエスは神の子であるという天からの声でした。そしてこのイエスは神の子であるというテーマは、系図の後の出来事にも見られます。
洗礼を受けられた後、イエスは悪魔から荒野での試みを受けます。
「悪魔はイエスに言った。『あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。』…『あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。』」(ルカ4:1-13)
新改訳2017
この荒野の試みの中で繰り返されている悪魔の言葉は「あなたが神の子なら」という言葉です。ここでもイエスが神の子であるのかどうかということが中心主題となっています。
このような文脈に注目すると、系図が配置されている場所とその意図が浮かび上がってきます。すなわち、ここで系図が示していることは、イエスは神の子であるということです。このような前後の関係を踏まえない限り、こんなに唐突に系図を挿入する意味がありません。
イエスは神の子である、ということが『ルカ』が意図したメッセージであるわけですが、もう一つ言えることは、それは世界を救うための「神の子」であるということです。『ルカ』における系図ではアダムまで含まれていますが、それはつまり、全人類の系図であるともいます。ルカは全人類の系図をここで挿入することで、イエスが全世界のために生まれてくださった神の子であることを端的に示していると考えられます。そして、この全世界という視点は、『ルカの福音書』および『使徒の働き』にとって中心主題でもあります。
このように「神の子」というテーマに注目すると、『ルカ』が系図を不自然な形で挿入していることの意図がわかってきます。したがって、二つの系図を調和させるという試みは必ずしも意味のないことではありませんが、そればかりに傾注するのではなく、『マタイ』と『ルカ』のそれぞれの系図がどのような意図を持って配置されているのか、ということに注目する方が、飛躍しすぎることなく、聖書のテキストを忠実に読む上で重要なことではないかと思います。
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