「聖書は難しい」ということは、誰もが初めて聖書を読んだときに抱く感想だと思います。それもそのはずで、聖書はとても分厚いですし、用語も馴染みのないものが多いです。そして何よりも、当時の時代背景を知らないことが、聖書が理解できない大きな要因だと言えます。
キリスト教にとって、「聖書」とは特別なものであり、中心的なものであり、その源泉であると言っても過言ではありません。しかし、だからと言って、聖書だけを読んでいればよいというわけではありません。むしろ、聖書だけではわからないこともあります。このことは、多少の拒否反応を起こすかもしれません。
しかし、それはよく考えれば分かることです。たとえば、新約聖書の「書簡」について考えるなら、差出人と受取人の両者には「暗黙の了解」があることは容易に想像できます。それはいちいち手紙に書かなくてもお互いに分かるものです。しかし、その手紙の当事者ではない第三者である現代の読者にとって、それは隠されていることなのです。
そういうわけで、当時の時代背景、状況などを知らないと、本当の意味で聖書の意味を理解することは難しいと言えます。しかし、逆に言えば、それらのことが少しでも分かると、聖書が語りかけるメッセージがより鮮やかに浮かび上がってきます。
そこで今回は、イエスに対して用いられる称号について考えてみましょう。
「主」「神の子」「救い主」、どれを取ってもイエスを指し示す称号として、お馴染みのものです。しかし、当時の時代背景を知ると、それは決してイエスのために生み出された造語ではないということがわかります。むしろ、これらの称号からまず連想されるのは、イエスではないということが明らかになるのです。
ではこれらの称号は誰に用いられるものだったのかと言えば、それはローマ皇帝です。これは現代人にとっては驚きかもしれませんが、当時の皇帝は時に神格化されました。しかし、日本においてもたった100年ほど前までは「現人神」という考えが浸透していたことを考えるなら、そこまで驚くことではないとも言えます。聖書に登場する皇帝はアウグストゥス(アウグスト)です。
そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。
ルカの福音書2章1節(口語訳聖書)
当時の人々にとって、「神の子」「救い主」などの称号が指し示したものは、ローマの皇帝でした。特に皇帝アウグストゥスは、「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれる平和を実現した人物として知られています。戦いが絶えない戦乱の世にあって、統治者となり戦いを終結させ、平和をもたらしたのがアウグストゥスなのです。
しかし、その平和は見せかけの平和だったと言わざるを得ません。なぜなら、その平和の背後には、ローマ帝国の圧倒的な軍事力があったからです。そのような武力による抑圧の中、成り立っていたのが「パックス・ロマーナ」だったのです。
このような時代背景を踏まえるなら、皇帝に用いられていた称号が、イエスに用いられることの意味がよく分かるのではないでしょうか。つまり、誰もが皇帝こそ、神の子であり、救い主であり、平和をもたらす者だと言われていた中で、イエスこそが神の子であり、救い主であり、まことの平和をもたらす者なのだと、聖書記者は証しているということです。ローマの皇帝について知れば知るほど、イエスがそれとは対照的な存在であるということが浮き彫りになってきます。皇帝は圧倒的な軍事力によって支配する王でしたが、イエスはしもべとなって人に仕える王でした。
したがって、当時の人々が「イエスこそ主」だと告白することは、ある意味、ローマ皇帝に対する抵抗運動であったということがよくわかります。それは命懸けの信仰告白だったのです。
このように、現代の読者が聖書のメッセージを汲み取るためには、当時の時代背景を理解することが欠かせません。これはほんの一例に過ぎませんが、そのようなことに少しでも関心を持っていると、聖書を立体的に読む習慣がついていくのではないかと思います。