ヨハネの福音書7章は、イエスがガリラヤからエルサレムに上り、仮庵の祭りで人々の前にご自身を表された場面です。

しかし、そのことが宗教指導者たちの怒りを買うことになり、彼らはイエスを捕らえるために下役たちを送り込みます。ところが下役たちは、イエスを捕らえることができませんでした。下役たちは、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」と弁明します。彼らはイエスという「ことば」の権威に圧倒されたのです。

この出来事が示していることは、まさにイエスの権威は、人の権威に勝るということです。下役たちは指導者たちの命令を果たせなかったわけですから、それなりのペナルティがあってもおかしくありません。しかし、下役たちが触れたのは、そのような人の権威さえも凌駕する、イエスの権威だったと言えます。

しかし、のこのこ帰ってきた下役たちに対する指導者たちの態度は冷酷なものでした。彼らは「律法を知らない群衆はのろわれている」と断じ、自分たちの知識の正しさを盾にイエスを拒絶します。この論争のクライマックスに置かれた52節に、著者ヨハネの驚くべき意図が隠されています。

1. 宗教指導者たちの「致命的な盲点」

ニコデモが律法に基づいた公正な裁きを提案したとき、指導者たちはその提案を一笑に付しました。

「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」

ヨハネによる福音書7章52節(口語訳聖書)

彼らは「よく調べなさい」と豪語しますが、実際にはガリラヤ出身の預言者(ヨナやホセア)は存在しており、彼らの知識には穴がありました。

しかし、著者がここで描きたかったのは、単なる彼らの「知識不足」ではありません。ここで注目されるのは、「出る」と訳されているギリシア語「ἐγείρω(エゲーロー)」です。この言葉の意味を踏まえるなら、ここには著者による壮大な皮肉が込められていることが読み取れます。

2. なぜ「ἐγείρω」なのか

ここで「出る/起こる」と訳されているギリシア語は、「ἐγείρω(エゲーロー)」です。この言葉は、『ヨハネの福音書』において一貫して「復活」を意味する言葉として用いられています。13回のうち8回が「復活」を意味しています。

  • 「私は三日でそれをよみがえらせる」(ヨハネ2:19)
  • 「あなたはそれを三日でよみがえらせるのか」(ヨハネ2:20)
  • 「イエスが死人の中からよみがえられたとき」(ヨハネ2:22)
  • 「父が死人をよみがえらせ」(ヨハネ5:21)
  • 「死人の中からよみがえらせたラザロ」(ヨハネ12:1, 17)
  • 「イエスが死人の中からよみがえって」(ヨハネ21:14)

パリサイ人たちは、イエスを否定するために「ガリラヤから(救い主が)出てくることなどありえない」と言います。彼らにとって、ガリラヤという田舎は見下されていたのです。

しかし、ヨハネはこの「ἐγείρω」という言葉を使うことによって、読者に暗に示しています。 つまり、彼らはイエスを拒絶するつもりで『出ない(起こらない)』と言ったわけですが、まさに彼らが拒絶したこのイエスこそが、死を打ち破って『よみがえる(ἐγείρω)』お方だったということです。

このことを踏まえるなら、彼らがイエスを拒絶するために放った言葉が、皮肉にもイエスの最大の栄光である「復活」を指し示す、逆説的な預言となっていると言えます。

3. 「のろい」が「祝福」へ逆転する場所

パリサイ人たちは、イエスの言葉に圧倒された下役たちや群衆を「のろわれている」と蔑みました。彼らは、神の言葉である「聖書」の知識によって地位を確保し、それによって自分たち上層階級と、律法を守る余裕のない群衆(下層階級)との間に境界線を引いていたのです。

しかし、この記事の真の結末は、後の十字架と復活にあります。 「のろわれている」と蔑まれた群衆や下役たちは、実は神のことばそのものであるイエスの権威に、誰よりも近く触れていました。

一方で、自分たちを「正しい」とした指導者たちによって「のろわれた者」として十字架に付けられたのは、他ならぬイエスご自身であったことが、ガラテヤ書のテキストから明らかになります。

 13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

ガラテヤ人への手紙3章13節(口語訳聖書)

宗教指導者たちが、「ἐγείρω(復活)」などありえないと断じたその場所から、神は「のろい」を「祝福」へと変える最大の逆転劇を成し遂げられたのです。

まとめ

宗教指導者たち(パリサイ人、祭司長、議員)は、イエスをキリストだと認めることができませんでした。そのことをヨハネは皮肉を込めて描写しています。

結局、どれだけ知識を持っていたとしても、それがかえって彼らの高ぶりに繋がっていたように思われます。彼らは、上層階級と下層階級の間に高い壁を築き、群衆を見下していました。なぜなら、群衆は神の律法を知らない(知識がない)からです。

しかし、この箇所に込められた痛烈なアイロニーは、そのような知識のない者たちの方が、よっぽどイエスに近いということでした。そして「ガリラヤから出る(ἐγείρω)はずがない」と見下している指導者たちの方が、イエスの「復活(ἐγείρω)」を最も理解できていなかったのです。

このような指導者たちの欺瞞を見ると、聖書の知識というのは、自分の地位を高めたり、人を見下すためのものではないということが、よくわかります。と同時に、現代においても、そのような欺瞞に陥っていないだろうかと、自分自身を吟味することの重要性を思わされます。