ヨハネによる福音書5章の考察〜イエスが御子であることをユダヤ人が理解できないのはなぜ?〜

ヨハネによる福音書5章の考察〜イエスが御子であることをユダヤ人が理解できないのはなぜ?〜 Gospels|福音書
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1-18節における、イエスによる病人のいやしはユダヤ人の反感を買うことになりました。それは、単に律法で禁止されている「安息日」にいやしたからではありません。最も大きな問題となったのは、イエスが神と等しいものとしたことです。

17 そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。

18 このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。

ヨハネの福音書5章17-18節(口語訳)

このような経緯で、続く19章以降のセクションでは、イエスがいかに御父から遣わされた御子であるかということを証明していきます。イエスが御子であることの最大の理由は、父なる神のみこころを行っているということにあると言えます。

19 さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。」

ヨハネの福音書5章19節(口語訳)

イエスの行動は、御父にならったものであるという点において、イエスは御父から遣わされたものだということです。子が親の行動を見よう見まねで真似るように、イエスもまた、御父のなさることを行うのです。

しかし、イエスの御子の証明はこれでは終わりません。

31 もし、わたしが自分自身についてあかしをするならば、わたしのあかしはほんとうではない。 

32 わたしについてあかしをするかたはほかにあり、そして、その人がするあかしがほんとうであることを、わたしは知っている。

ヨハネの福音書5章31-32節(口語訳)

ここでイエスはご自身の証しでは、不十分であることを暗に示しています。おそらく、ここで念頭に置かれているのは、イエスが対峙しているユダヤ人たちが重んじていた旧約聖書の律法です。

15 どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。

申命記19章15節(口語訳)

おそらく、イエスは自分がいくら証明したとしても、ユダヤ人は他の証言を求めるだろうということをわかっておられたのではないでしょうか。そこで、自分の他に、4つの証言を取り上げます。

①バプテスマのヨハネ(33-35節)
②ご自身のわざ(36節)
③御父(37節)
④聖書(39節)

しかし、このような証言をもってしても、御子であることを認めないということを、イエスは指摘します。

40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。

41 わたしは人からの誉を受けることはしない。 

42 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。 

43 わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。 

44 互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。

ヨハネの福音書5章40-44節(口語訳)

結局、ユダヤ人はイエスが御子であることを認めることができませんでした。しかし、その理由がここに明確に記されているように思われます。すなわち、イエスが御子であることを受け入れるためには、「神を愛する愛」が必要だということです。

ここで「神を愛する愛」と訳されているギリシア語は、「τὴν ἀγάπην τοῦ θεοῦ」(英語では the love of God)ですが、「神への愛」あるいは「神の愛」と直訳できます。「τοῦ(of)」を「対格的用法」と取るか、あるいは「主格的用法」と取るかで、意味合いが変わってきますけれども、どちらも含み得ると考えることも可能だと思われます。つまり、ここでユダヤ人には「神への愛」また「神の愛」が欠如していたということです。

それではなぜ、イエスが御子であることと「神への愛」「神の愛」が関係しているのでしょうか。それは、御子イエスが遣わされた理由にあります。

16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである

ヨハネの福音書3章16節(口語訳)

御子が御父から遣わされたのは、まさに愛の現れです。したがって、そのような神の愛が理解できないのであれば、また神への愛がないのであれば、イエスが御子であることを理解できないのは、ある意味当然の帰結と言えるのではないでしょうか。

それでは、どのように神への愛は生まれるのでしょうか。あるいは、神の愛を知ることができるのでしょうか。おそらく、そこに深く関わってくるのが「律法」であるように思われます。

ユダヤ人が大切にしていた律法は、父なる神によって与えられたものです。その律法を尊ぶ時、父なる神がなぜそのような律法を与えられたのかがわかるようになります。それはまさに、ユダヤ人が神と共に右にも左にも逸れることなく歩むためであり、また御父のあわれみを受けるためです。律法には神の価値観が反映されているのです。そうであるならば、律法を重んじる時、神の愛と神への愛が生まれてくるはずなのです。

しかし、現実はといえば、ユダヤ人にとって、律法はお互いに「誉」を受けるための手段に成り下がっていました。いかに、律法を守り、行えば、人から誉を受けられるのか、そのことばかりを考えていたわけです。律法が神に喜ばれるためではなく、人からの賞賛を得るためのものになってしまうとき、もはやそこには神の愛も神への愛も生まれることはないと言えるでしょう。

したがって、イエスが御子であることを認めることのできない最大の理由は、律法の意味を履き違えてしまったことにあるのではないでしょうか。律法が人からの誉を得るためのものになってしまっていたのです。しかし、律法とは、本来、御父からの贈り物であり、それを通して、神の愛を知り、また神への愛が育まれるものです。もしそのことがわかっていれば、ユダヤ人もイエスが御子であることを理解することができたのではないでしょうか。

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