聖書を学ぶ

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 最近は「聖書」という言葉を知らない人はほとんどいません。一般的にも、「バイブル」や「福音(グッドニュース)」といった、いわゆる「キリスト教用語」が浸透しています。また、世間を賑わせている音楽の歌詞や本などのストーリーにもキリスト教のテーマがしばしば見られます。名称だけに絞れば、その数は何倍にもなります。例えば、使徒、原罪、エヴァンゲリオン(ギリシア語で福音)、十字架など、たくさんあります。それだけ多くのクリエイターが「聖書」に親しみ、何かを創造するヒントを得ているのだと思います。同じように、読者や聴衆も惹かれるものが「聖書」の中に含まれていると言えます。

 ところが、聖書を読んでみようと思っても、実際のところとても難しいです。その理由はいくつかありますが、その一つは、聖書が書かれたのは何千年も前の時代だから、ということが挙げられます。例えば、新約聖書は1世紀前後に書かれたものですが、日本でいえば弥生時代にあたります。仮にその頃の文書が残っていたとしても、その解析は決して簡単ではないことは容易に想像がつきます。同じように、聖書を理解するのも一筋縄ではいきません。当時の時代背景はさることながら、聖書が書かれたオリジナルのテキスト(原文)や文脈に注意して読む必要があります。

 そうは言われても、誰でも旧約聖書が書かれたヘブル語(ヘブライ語)や新約聖書が書かれたギリシア語を勉強しているわけではありません。その結果、聖書はある種の「名言集」のように読まれ、それぞれにとってピンとくる言葉、心に響く言葉だけが広まってしまいました。もちろん、それには大きな恩恵もあります。聖書に記されている生ける神のことばが多くの人の生きる力になっているからです。例えば、よく聞く言葉としては「神様は越えられない試練は与えられない」です。ですが、この言葉だけでは、聖書が伝えている真意の一部に過ぎません。もちろん、聖書のメッセージを100%理解しているとは誰も言えませんが、少なくとも部分的に理解するよりもさらに味わい深い意味が込められていることを、聖書を学ぶことでわかるようになります。

 先程の例で考えてみましょう。コリント人への手紙第一10章13節。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

『新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)

有名な言葉は、前半の部分ですが、重要なのは「むしろ」で始まる後半の部分です。つまり、試練には「脱出の道」があるということです。これは、一見すると試練から抜け出す回避ルートがあるかのように思われます。そう考えますと、人生の中で試練と思えるような辛い経験はあるけれども、それを抜けるイージーな道があることになります。

 ここで「脱出の道」(新共同訳聖書では「逃れる道」)と翻訳されている言葉は、ギリシア語で「ἔκβασις(エクバシス)」と言いますが、「出口(way out)」といった意味合いがあります。それは試練という暗闇の中で遠くに見える光のようです。そして、その出口は「試練とともに」備えられていると言われています。つまり、ジェット機のパイロットがボタン一つで緊急脱出するようにではなく、出口を目指して、試練の中を突き進む、そのようなイメージがこの言葉から浮かんでくるのではないでしょうか。

 このことを踏まえるとどうなるでしょうか。神様は試練を与えられるけれども、それと同時に脱出の道も備えられている。しかし、その脱出の道は試練の中を通り抜けてこそたどり着ける「出口」である、と考えられます。その試練は決して簡単なものではありません。

 人は誰でも、大きな困難にぶつかります。それは終わることのない夜のように思われるかもしれませんが、それには必ず終わりがきます。ですが、もしも神様は試練からの抜け道を与えてくださる!と(だけ)思って、今か今かと抜け道を待っているなら、その試練の意味を理解することはできません。なぜなら、神様は試練を与えられるお方だからです。むしろ、試練のその先に出口があるという約束が与えられていることを覚える時、試練に対する見方が変わり、忍耐する力が生まれるのではないでしょうか。

 このように聖書の言葉一つとってみても、とても奥深く、豊かな意味合いがあることを教えられます。聖書の学びは一朝一夕にはいきませんが、生涯をかけて学び続けることに大きな意味があります。このような聖書の学びが少しでも人生を生きる上で私たちのいのちの原動力になることを願っています。

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