以前書いたこの記事を読み返しながら、少し立ち止まって考えてしまいました。

「愛することは、大損すること」。

このメッセージは、理想論としては美しく響きます。しかし、効率や合理性が重視される日常の中で、この言葉をそのまま受け取ることは、実際には非常に困難だと言わざるを得ません。ともすれば、単なる「綺麗事」として聞き流されてしまうこともあるでしょう。

そこで今回は、当時の内容に「経済(オイコノミア)」の視点を加え、愛が伴う「損」の正体について、より現実的な側面から掘り下げてみたいと思います。経済についてはこちらをご参照ください。

タイトルの 〈Re-Wright / Light〉 という言葉には、二つの意味を込めています。一つは、かつて書いた言葉を今の視点で整え直す 「Wright(構築する)」。そしてもう一つは、過去の思索を「神の経営(オイコノミア)」という光の下で改めて照らし出す 「Light(光を当てる)」 という試みです。

1. 負債は、魔法のように消えはしない

聖書が語る「罪の赦し」は、しばしば「借金の免除」という比喩で説明されます。 私たちは「免除」と聞くと、負債が魔法のように霧散して消えてしまうイメージを持ちがちです。しかし、現実の経済において、負債が勝手に消えることはありません。

誰かの借金がゼロになったとき、その穴は消滅したのではなく、必ず「債権者(貸していた側)」の損失として確定します。

借金を免除するとは、相手が支払うべきコストを、自分が代わりに引き受けて「持ち出し」にするという、非常に具体的な決断です。

2. 「尻拭い」を引き受けるということ

日常の人間関係においても同じことが言えます。「あの人を許す」あるいは「愛する」と決める際、私たちは無意識に一つの問いに直面しています。

「誰がこの損を補填するのか?」

裏切られたことによる実害や、費やした時間、傷ついた尊厳。 それらを「帳消し」にするということは、相手にその責任を追及する権利を放棄し、その損害を自分自身の人生の中に飲み込むことを意味します。

愛とは、いわば相手の「責任の尻拭い」を、自分の懐を痛めて引き受けること。 この世の損得勘定から見れば、これほど非合理で、割に合わない「大損」はありません。

3. 先駆者としてのキリスト—「身代わり」ではなく「代表」として

ここで、キリストの十字架の意味を捉え直す必要があります。 キリストの死を、単に私たちの罪をチャラにするための「身代わり」としてだけ捉えると、私たちは「自分は何もしなくていい」という受動的な態度に陥ってしまいます。これについては過去の記事もご参照ください。

しかし、聖書が示すのは、キリストが私たちの「代表」として、人間には決して切り開けなかった道を先頭に立って歩まれたという姿です。

全人類の負債という巨大な穴を、神自らが「持ち出し」となって補填された。それは、私たちが無責任に生き続けるためではなく、私たちもまた、キリストが開いた「愛ゆえに損をすることの先にある命の道」を共に歩むことができるようになるためです。

十字架とは、単なる免罪符ではありません。 「自分の十字架を負ってついてきなさい」(マルコ8:34など)と言われたイエスが、自らの命を資本として、この世の損得勘定を逆転させる新しい生き方(オイコノミア)への門をこじ開けた。その先駆的な「大損」だったのです。

4. 狂気を受け入れることへの招き

計算高いこの世の論理から見れば、このような補填を引き受ける生き方は「狂気」に近いかもしれません。 しかし、その狂気の中にしか、本当の意味での「赦し」も「自由」も存在しません。

私たちが「大損」を覚悟して誰かを愛するとき、私たちは世俗の経済論理から離れ、神の経営計画の一部を担うことになります。 自分の損失が「敗北」ではなく、神の国における「新しい命の資本」へと変えられる。その逆説的な営みに、私たちは招かれていると言えます。